同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 同労者の会を再考しよう —

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」
(ヨハネの福音書 15:12〜14)

 「私たち信徒は、主の働き人たちの同労者になろう。それを目指して研鑽しよう。」それが当初から目指した内容でした。そしてその活動の手段のほんの一つとして選択した、会誌「同労者」の発行でした。しかし、本誌の発行には絶えず協力して下さるかたがた、財をもって支えて下さる方々が与え続けられて、号を重ねてくることが許されました。
 そしていつしか、月刊誌「同労者」を通じて、お互いに研鑽し合うという形になっています。それは働きとしては、一部にとどまっているということかも知れませんが、同労者を活用して頂いている方々には、充分によいものとなっていると思います。
 信徒が働き人たちの同労者を目指すということは、一つの教会や、教団という小さな枠にとどめる必要はないと考えて、どこの教団、どこの教会に所属する信徒であっても、もしその必要があれば所属する教会の先生方とご相談しながら、加わって頂くことができるものに変えてきました。こういう活動をしている、ということを聞き知った先生方からも、私の教会の信者さんたちに、同労者としての積極的思いをもっていただきたいですね、そういう声が聞こえてきました。
 正統的なキリスト教の信者であり、キリスト教の世界で異端とされるものの信者でないならどなたでも受け入れます、というとき、自ずとそこに一定のルールを設けなければなりません。
 その要点は、「自分の考えはこれです、と主張して結構です。しかし、他のかたがたがその主張を受け入れないことも承知しましょう。」ということです。キリスト教の信者の間で、礼拝や礼典の様式からはじまって、どのような内容を信じているのかは、既に長い歴史をかけ、それが今の状態を作り出しているのですから、それを一致させようと、考えることはやめましょう。
 私たちは、どなたかが真摯な信仰に生きている姿を見せて頂くとき、それが大きな学びとなります。キリストの十字架の贖いに与り、救われてキリストと共に歩むこと、信仰の故に起きてくる困難にも堅く立っていることを見聞きするとき大きな感動を覚えます。そして自らの姿を正すのです。
 そのようにして、イエスのご命令に従い「私たちは互いに愛し合いましょう。」これほど素晴らしいことはないではありませんか。

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