同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 石井行雄兄への返書 —

鈴木 健一

 救い主を賛美申し上げます。
 『同労者』第104号の巻頭言「鈴木健一兄への手紙」をありがたく読ませていただきました。
 私は今68歳で、19歳の時信仰を持って以来間もなく50年になろうとしていますが、この50年のうちでも稀に見るすばらしい、信仰のお手紙を受取らせていただきました。
 まことにきわどい、細き道を辿られた行雄兄の証しを読むだけで、お父さんやお母さん、牧師先生をはじめとする、多くの兄弟姉妹の多くの祈りの中で、行雄兄が成長されたことがわかります。これは正に教会の業であり、これこそが「主の業」であります。私も、若い未熟な学生の時でしたが、ほんの少しこの業に参加させていただいたことは光栄でありました。また、震えるような厳粛さを感じました。
 一つ思い出したことがあります。
 中学生の行雄君が、切手を集めるのに夢中になっていたことがあります。私も中学生の頃から少し集めていたので、「写楽」や「ビードロ娘」を出された当時安く買って持っていることを話すと、行雄君が目の色を変えて「俺に、くれー」と言いました。どうしようかとしばらく考えたのですが、若い私自身も惜しくなってしまい、上げられませんでした。行雄兄の手紙を読んで、あの頃の兄の切ない心境を知り、「ああ、あの時上げればよかった」と、教育者を目指した自らの鈍感さを嘆きました。その後ろめたさがあったので、憶えていたのだと思います。そして、人と人との係わり合いの微妙さを改めて感じさせられました。
 自分がどんな風に「主の永遠の業」に参加させていただいているかは、聖霊なる神様の秘かなる導きによってであり、普通は秘されている部分が多いと思います。なかなか自覚できないものですが、時には憐れみによって少しだけ見せていただくことがあります。見せていただける時には、またそれだけの深い意味があるのだと思います。
 私は大学の一年生の頃から、自分の将来のために祈りました。大学院の修士課程の一年生の後半まで約5年間の祈りのなかで、大学に残って研究者の道を進むか、伝道者として献身するか、学校の教師となるか、三つに絞られ、最後にはお言葉(イザヤ43:19)をいただいて、教師の道を選ばせていただきました。そして仙台を去るとき、教会の有志の方々が送別会を開いて下さり、その席で山本光明先生から聖書のお言葉を頂戴しました。当時は文語訳聖書でした。

 然れば我が愛する兄弟よ、確くして揺るぐことなく、常に励みて主の業を務めよ、汝等その労の、主にありて空しからぬを知ればなり。(コリント人への手紙第一 15:58)

 私の教育の業が「主の業」であり、主にある愛の業であるならば「空しくない」というのです。すなわち私の教育の仕事は永遠の世界につながる、というのであります。39年間の教師生活で何度思い出し、慰め励まされたか知れません。そして、伝道者が祈り深く伝えてくださる聖書のお言葉が、如何に生きて働くかをも知ったことであります。
 加えてイエス様は、教師である私が気落ちしないようにと、今回の行雄兄のケースのように、時々永遠の帳(とばり)を少し上げて、神の国の広がっていく様を見せてくださいました。次の文章は、昨年の秋、ある教会の信徒伝道週間に招かれて、奨励をさせていたいた一節です。

 こんな経験があります。10年ほど前、妻の母親の晩年のことです。老衰でしょう。からだのあちこちが悪くなって入院しているうちに、大部屋から集中管理の隣の部屋に移されてきました。母は未信者です。妻は毎日看病に出かけましたが、ある日のこと、興奮して帰ってきました、「教師のあなたには、ぜひこのことを知らせたい」と言います。もう最後の機会だと思った妻が、イエス様の話をしたそうです。すると母は、「イエス様のことは知っているよ」と答えます。「いつくしみ深き」も「主われを愛す」も知っているというので、一緒に歌ったそうです。
 妻もその時初めて聞いたのですが、母は昭和の初め、小学校の教師になるために埼玉師範(今の埼玉大学)に通っていた学生の頃、北浦和駅前の教会に二年ほど通っていたというのです。そして、イエス様の教えこそ本物だと思ったそうです。でも当時の家庭その他の事情で、誰にも言わずに、心に秘めて今日まできた。
「じゃあ、お母さんはイエス様を信じますか」と聞きますと、「信じたい」と答えます。それで牧師先生にお願いして、病床洗礼を授けていただくことになった、という話なのです。母は洗礼を受けて気が軽くなったのか、その後快方に向かい、大部屋に戻り、ついには退院して、我が家で一緒に住みました。そして、二年ほどして天に召されました。
 本当に感動しました。母の心にまかれた神の言葉の種が、60年も経って芽を吹いたのです。縄文時代の蓮の種が2000年後の今日新しく芽を出すという話を聞きますが、種には命があります。そして神様のなさる伝道の業は、桁外れに息が長いのです。私たち教師が、また親が、まだわけのわからない子どもたちの心に今日蒔くお言葉の種は、決してむだにはなりません。希望を持って、教育と伝道という「主の業」に励んでよいのであります。

 以上と同じ思いを持って、行雄兄からのお手紙を読ませていただきました。行雄兄が、伝道会で、また教会学校成人科で、生き生きと活動されておられることを何より喜んでおります。ともに主の御名を崇め、励みましょう。
(インマヌエル大宮教会 会員)

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