同労者

キリスト教—信徒の志す—

信仰良書

神への道 (87) —道に目印をつける—

D.L.ムーディー 著 山田 大 訳

  開拓地では、猟に出る時、手斧を持って行き、森を進むにつれて、木の皮に傷をつけます。これを「道に目印をつける」といいます。深い森には道が無いため、帰り道がわからなくならないようにするのです。キリストはこの地上に来られ、道に目印をつけてくださいました。そして今は天に帰られましたが、もし私たちが主の歩まれた跡を辿るなら、私たちは正しい道に保たれます。
 あなたがキリストの跡を辿っているかどうかをどうやって知ることが出来るか教えましょう。もし誰かがあなたを中傷したり、誤解したりしたら、あなたはその人を主がなさったであろうように扱いますか。もしあなたが愛と赦しの心でこれらのことを耐えるのでなければ、世界中のあらゆる教会も牧師もあなたを正すことは出来ません。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」(ローマ人への手紙 8:9)。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(コリント人への手紙第二 5:17)。
 キリストは私たちの道であるだけではなく、道を照らす光です。「わたしは、世の光です」(ヨハネの福音書 8:12、9:5、12:46)。主は続けて言われました「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネの福音書 8:12)。キリストに従っていて闇の中を歩むというのはあり得ません。もしあなたの心が闇の中にあって、この世の霧や霞の中を手探りで歩き回っているなら、それはあなたが真の光から離れてしまっているからです。闇を追い払うものは光しかありません。
 ですから、霊的な闇の中を歩いている人々に、心の中にキリストを受け入れさせなさい。なぜなら主は光だからです。私は一枚の絵を思い出しています。かつてはその絵で多くのことを考えたものです。でも今はより近づいて見ています。私は敢えて壁に顔を向けるのでなければ、家の中にその絵を飾ろうとは思いませんでした。それは手に大きなランタンを持ち、ドアの前に立って、ノックしておられるキリストを描いています。どうでしょうか。ランタンををキリストの手に置くぐらいなら、太陽に掲げた方がましではないでしょうか。主は義の太陽です。そして雲無く晴れ渡った太陽の光の中を歩くのは私たちの特権なのです。
(訳者:仙台聖泉キリスト教会 会員)

Valid XHTML 1.0 Strict