同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 信仰と職業 —

「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」
(テサロニケ人への手紙第一 4:11〜12)

 本誌102号(本年2月)の巻頭言に母教会から離れずにいられるよう職業を選択したことが載せられました。そして更に、105号(本年7月)の巻頭言には、神がお与えになる自らの使命として職業を選択した証しが載せられました。
 クリスチャンの職業はどうあるべきか、と論じられます。「できるだけ儲けなさい。そして得たものを神のために捧げて、教会の活動のために、貧しい兄弟たちのために、用いなさい。」職業に対するそういう視点での勧めもあります。
 筆者たちが若い頃、牧師からよく言われたことは、「信仰と職業が重なっていなければだめなんだよ」ということでした。信仰は教会に来ている時のもので、仕事の場にでていくとそれとは別世界というように生きてはいけない、仕事というもの自体が信仰生活の一部になっていなければならないということでした。
 神から与えられた使命の道として、仕事ができることは幸いです。若い人々がこれから職についていくという段では、ぜひこの兄弟の証しに見習ってもらいたいと思います。
 しかし、時には不本意に感じる中を通過させられることもあります。自分にとって不本意なものと感じても、自ら進路を選択する段階で、信仰に相応しくないものを選んだのでなかったなら、それが使命ではないと考えるべきではありません。
 教会の中の話ではありませんが、男たちが酒の席でこんなことをいっていたことがありました。(念のため述べておきますが、同席しただけで酒を共にしたのではありません。)「時には辞表をたたきつけてやりたいこともあるけどさ、家族を食わせていかなけりゃなんねえからさ。じっとこらえてるさ。」「自分にあわねえ仕事だってよ、配属されればそれをするしかなかんべ。あわねえ仕事がばしばしできるはずねえのに、評価をさげられて、給与が下がる。」
 クリスチャンにはそういうことがない、などということはありません。同じように不本意な仕事をし、愛する者たちのために、上役の叱責にも甘んじなければならないこともあることでしょう。
 家庭は教会の中の単位です。それを信仰によって建て上げることがなされています。職業はその基盤となる一側面です。ですから職業もまた、信仰を持っていそしませていただきたいものです。賃金を得るだけに見える仕事であっても、もしそこに導かれたのであるなら、信仰者としての気概をもってそれに取り組むとよいのです。私の職業は信仰と重なっているといえるように。

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