同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第33回) —

野澤 睦雄

2. 旧約における三つの職務の考察(つづき)
2.2 預言者(つづき)

 エーリヒ・ザワーは、「特註」として、旧約聖書の預言の解釈についての解説を付け加えています。その内容は、私たちの旧約の預言に関する聖書理解に大変役立つと思われますので、それも引用しておきます。 (「世界の救いの黎明」:いのちのことば社、1975年3月25日 改訂再刷 p.237以下から引用。——これも抄録ですので、詳細には原書を参照してください。)

 —ーー われわれは、「言語的」預言、すなわち<言葉>を用いてする預言と(たとえばミカ5:2、「ベツレヘム・エフラテよ。 あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」・・・)と「類型的」預言とを区別すべきである。
 類型的預言は(言葉によって)ある類型(類型をもってする予表)を預言する。それは二通りに成就する。言語的預言は、類型が現れることによって成就するが、類型的預言は、この類型が「実現」することによってのみ、完全に成就する。言いかえれば救いがメシヤによって進展することによってのみ完全に成就する。(たとえばホセア11:1、「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。」、マタイ2:15)。
 この意味においてイスラエル王国に関する預言は、同時に教会時代に関する預言であることが、しばしばある。旧約の意味では、明らかにイスラエルと末の時とに関するものである旧約預言を、なぜ新約の今の教会時代に霊的に適用するかという問題については、ただこの事実だけが、解決の鍵をわれわれに与えてくれる。その際もちろん、それらのことが文字通り適用されることを否定するつもりはないのであるが(ローマ 11:29)、神の側からは、これらの預言は、旧約の預言者たちが自覚していたより以上の意味をもっていたのである(ペテロの手紙第一 1:11〜12)。
 それ故、ただ霊的にばかり解釈するのは全くの誤りである。それはイスラエルに神が与えた約束を、イスラエルから奪ってしまうことになるからである。しかしまた、文字通りの未来的意義<しかない>と説明するのも、やはり一方的解釈である。なぜならば、それは新約の引用を不当に扱うことになるからである。「霊解」はかなり広く新約で用いられた方法であるが、そうかと言って、そのために他の解釈の方法をすべて捨てるべきではない。
 さらに旧約の預言が、この古い地上に神の国が栄光に輝きながら、目に見えるように来臨することを語る場合には、それがその新しい地での最後の完成に関する類型的預言であることが非常に多い。もしそうでなかったら、われわれは旧約の預言全体の王国に関する約束はただ一千年という非常に短い期間について述べているだけで、救拯史の実際の究極的な目標のことなどは、何も語っていないのであるという全く不可解なことに当面することになろう。そんなはずはない。旧約の預言は同時に永遠の「類型的」預言である。そして預言当時の環境と、来るべき千年王国とについて、述べているのが文字通りの意味であり、直接的関連のあることを考慮しなければならないが、その上このことだけは言っておかなければならない。すなわち、旧約預言の本当の本質的な神髄は、この地上での神の国ではなく、(それは来るべき神の国の<最初>の部分である)永遠の王国(前者は後者の発端かそれへの接近にすぎないであろう)すなわち来るべき神の国のこの<第二の>、<本当の>部分、新しい地上の諸国家と、そこにある新しいエルサレムとである。イザヤ65:17〜25、66:22。
「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」と主は仰せられる。・・・わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、──主の御告げ──あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」
 かくて、旧約の預言は、救拯史のなかで四とおりの解釈を持っている。
1 預言者自身の旧約的環境に関する同時代のものとして。
2 教会時代に関する霊的また類型的なものとして。
3 文字どおりの末の日に関する、この地上に来るべき神の国の中の、イスラエルと諸国家とについて。
4 永遠の光にてらされた新天新地について。
 完成への途上においては、それぞれの段階へ登る踏み台の役しかもたない。旧約は教会時代への玄関である。教会時代は、可視的・地上の神の国へはいる玄関である。しかし、この可視的・地上の神の国も、その究極の目標ではなく、やはり玄関にすぎない。永遠においてのみ、完全な王宮は開かれているのである。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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