同労者

キリスト教—信徒の志す—

読者の広場 <お便り>

— ワープロで文章をどう書くか —

山田 義

 文章を書くとき、特にワープロで漢字と仮名混じりで日本語を書くとき、漢字を使うべきか仮名でいいのか迷うときがあります。そんなとき私は、現代国語表記辞典(三省堂発行ISBN4-385-13750-1)を引きます。しかし、私たちには新改訳聖書が与えられていますからこの聖書の表記の仕方を基準にすることが最良だと思います。しかし、新改訳聖書第3版では第2版とは異なったところもあります。それは、文部科学省の定める「常用漢字」も変化していますから、聖書の日本語訳の事業とともに、時代に即した表記に従って書くことが大切だと思います。
 きょうは、表記のことを書こうとしていますが、それを順序立てて全てを網羅して書くことは私にはできません。しかし、最近の『同労者』の記事から例を拾い出して書いてみます。

 キリスト者の書いた文書に「御言葉」と書かれているのを時々見ますが、新改訳では、「みことば」と仮名で書いています。そのほかの例では、「私のことばに耳を貸してください」というようにひらがなで書いてあります。新改訳には「言葉」という表記は皆無です。(ついでに、「クリスチャン」という書き方はどこにもなく、「キリスト者」と表記しています。)
 「てんからみこえをきく」という句では、「天からみこえを聞く」ではなく、「天から御声を聞く」と書いてあります。「御」という字が付く単語はすべてひらがなというのではありません。
 「えいえんのいのち」を新改訳では、「永遠のいのち」と書いてあり、「永遠の命」とか「永遠の生命」とは書いてありません。
「命」という漢字は「命じる」とか「命令」という場合には使っています。「生命」という用例がありますがふりがなは、「いのち」ではなく「せいめい」とあります。
 「子供」ではなく、「子ども」と書きます。供の用例として、「供え物」、「お供がいない」というのがあります。
 「一人」ではなく、「ひとり」と書きます。
 「頂く」戴く」ではなく、「いただく」と書きます。
 「全ての」ではなく、「すべての」と書きます。
 「並びに、」ではなく、「ならびに、」と書きます。ただし、「主と並びえましょう、一並び二並び」と書きます。
 「その通り」ではなく、「そのとおりか」という新改訳の例があります。「知っているとおり、通り過ぎる、その通り道」という例があります。
 「たち」という書き方では、「兄弟達」とは書きません。「兄弟たち」とか「王たち」と複数を書くときは「たち」です。ただし、ともだちは「友達」と書きます。
 「受けることが出来る」ではなく、「受けることができる」と書きます。ただし、「出来事」と書きます。
 「示して下さい」ではなく、「…をしてください」と書きます。
 ただし、何か物を与えよという意味で「私に子どもを下さい。」というときには「下」という漢字を使います。
 新改訳では、「分かる、解る、判る」とは書かず、「わかる」と書きます。ただし、新共同訳では、「分かる」を使っています。
 「さま」の使い分けがあります。「神様」「イエス様」という書き方は新改訳にあるでしょうか。ありません。「神さま」とか「イエスさま」と書きます。ただし、それはカギ括弧の中だけです。すなわち会話文の中でなら、「神さま」とか「イエスさま」と表しますし口で語るときにもそう言うのはいいでしょうが、文書に書くときの地の文では、「神」とか「イエス」と書いても不遜な表現ではありません。そのほうが文書を簡潔にします。だって、新改訳がそう書いているからです。「様」という漢字は「様子」とか、「有様」「模様」「様々な」というときには用います。
 「才」か「歳」か。「六十才」ではなく、「 六十歳」書きます。(才は才能の才であり、歳は年齢や年の意味。)ただし、手で紙や黒板に書くときは「60才」と書いても許されます。NHKテレビのテロップには時々「才」と書いていることがあり、気になるものです。
 新改訳聖書は縦書きのほかに横書きのものも発行されていますが、どちらも「二十歳 」と書いています。しかし、私たちが書く一般の文書では横書きならアラビア数字がいいでしょう。
「60歳」などと。
 「頑なな」という例。「頑」という漢字は、「頑固、頑迷」などと書いていいのですが、「頑」という漢字には「がん」という読み方はあるのですが、「かたく」とか「かたくな」という読み方は、『現代国語表記辞典』によれば常用漢字表にない読み方ですから、 「頑なな心」と書かずに「かたくなな心」と新改訳でも書いています。
 新改訳聖書には、「赦す」という表記があります。「ゆるす」という読み方は、常用漢字表にない読み方ですから、『現代国語表記辞典』は一般の文書では使えないとしていますが、新改訳など聖書では、「罪を赦す」などというときに使っています。もちろん、「彼女に触れることを許さなかった」というように許可の意味のときには「許」を使います。
 「咎」は常用漢字以外の漢字ですから、聖書など以外の一般の文書では使わない漢字です。一般文書で「赦す」とか「咎」を使うときはふりがなを振るのが親切でしょう。
 最後になりましたが、一般的に使っている「ギリシャ」は聖書には例がありません。「ギリシア」とか「ギリシア人」という聖書の中の書き方は、「イタリャ」とか「シリャ」と書かず「イタリア」とか「シリア」という書き方に合致していると思います。
イエスの母の名前は新改訳では「マリヤ」と書き、地名を「サマリヤ」と書いていますが、一般的にも新共同訳でも「マリア」「サマリア」と書いています。戦前の文書で、ピアノのことを「ピヤノ」と書いたのを見たことはあります。
 表記について、ほんの一例を挙げました。文章を書く人の参考になれば思います。聖書を読むときに漢字やかなだけではなく、句読点の方法にも注意を払うと、だれもが読みやすい読み物を提供できるでしょう。その努力が福音を伝える力となりますように。

(中京聖泉キリスト教会会員)

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