同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 十字架のことば —

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(コリント I 1:18)

 来月4月にはイースターがあります。それを前にして、今月はパウロが掲げた十字架のことばについて考えましょう。
 救われる前には十字架はあまり関心事ではありませんでした。皆さんもそうでしょう。しかし、罪を赦され、救われた今、それは限りなく慕わしいものとなりました。
 この世の刑罰で最も苦痛な死に方をするもののひとつである十字架、ユダヤ人たちが、自分たちをローマの圧政から救出してくれるかも知れないと思い、自分たちの王にしようと思った男が、ローマ人にむち打たれても、黙って立っているの見て激昂(げきこう)し、十字架につけろと叫んだその十字架、ピラトが私には責任がないといって手を洗ってイエスを引き渡した十字架、刑場まで重すぎてイエスご自身が運べなかった十字架、クレネ人シモンが無理遣り背負わされた十字架、ゴルゴタの丘に立てられた三本の真ん中の十字架、イエスの架けられた十字架、ユダヤ人の王ナザレ人イエスという捨札(すてふだ)がヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で掲げられた十字架、イエスがその上で七つの言葉を発した十字架、その下で母マリヤの心を引き裂いた十字架、兵士たちがその下でイエスの衣をくじ引きした十字架、今十字架から降りてみろそうしたら信じてやると、パリサイ人たちが嘲った十字架、あたりが暗くなった十字架、神殿の幕がまっぷたつになった十字架、イエスの脇腹の兵士のついた槍の傷から血潮が流された十字架、イエスの足が折られなかった十字架、安息日にならないうちにと急いでイエスの死体が取り下ろされた十字架、まだまだありますが、これらのことがらひとつびとつにどれだけの内容があることでしょうか。
 私たちは立ち止まって、十字架のことばを思い巡らしましょう。さもないと、十字架のことばにある神の力が私たちのものとなり、自分の十字架を負うことができません。イエスはこう言われました。
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ 10:38)
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ 9:23)
 私たちの前には「日々」十字架があるとされています。しかし、自分の罪や失敗による悪しき結果は十字架とはいいません。十字架は善をなして、なお苦悩しなければならないところにあります。その多くは自分のためにでなく、イエスと同じように隣人のためにあるのです。神が私たちの前に置かれた自分の十字架を負って、イエスのみ足跡に従っていきましょう。

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