同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— この一年の歩みを思う —

森田 心

「私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」(詩篇 90:17)
 今年1月最終聖日に教会総会がもたれました。その最後の方で、今年の人事が発令されました。責任役員の名前が呼ばれた最後に私の名、森田心と呼ばれました。心のなかでハイと返事をさせていただきました。
 振り返ると、30代半ばに入ろうとするころ、教会と仕事の両方を建て上げていくことが出来ず、職場では責任ある職務も与えられ、これからという時でもありましたが、出入り業者の小さな会社で、先への期待が出来るようなところでもありませんでしたが、そこに転職をし、神の御側近くを歩みたいという願いを持って歩み出しました。
 そのころから教会の責任役員になりたいという思いを持ちました。数年後、役員補佐として任命を受け、役員の方の働きや手助けの中に加えさせていただきました。その後役員として任命を受けました。
 はじめはそこの中に、自らが加えていただいたという喜びのようなもので、自分が何かを負っていく責任の中心にいるものではありませんでしたが、少しずつ働きの中心が年長の役員の方々から、私たちの年代の方へと動きはじめてきました。一昨年あたりから、更に責任役員としての自らの役割のようなことを強く意識するようになりました。そんなある時に、私が担当している聖書研究会を開くための会場作りを、ある兄弟が一人で準備していたことを知りました。多くの方が集まるため、礼拝堂の椅子の並べ方を変え、机を入れて集会を開くことができるようにします。
 私は若い者が下働きをすることは当然のように考えていました。しかし、その準備は、あまりにも若い者が責任をもっていたのです。集会はここからはじまっていることを、改めて思い直させられると共に、私もそこから彼等と取り組んでいきたいと思いました。
 又、年に2回、教会の大掃除の時も、老先生のお2人がいつも一所懸命に仕事をしている姿を見せられます。それに年長の役員の方々も自分の家もこんなにすみずみまで掃除をしているのだろうかと思うほど、休まず掃除をしています。教会を愛し、生きてきた方々の側でその姿を見させていただく時に、私もその方々と同じようにへりくだった心を持って、教会の一つ一つの働きの中に加えさせていただきくことが、今私にとって大切なことであることを思い、今年も歩みをしていきたく願っています。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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