同労者

キリスト教—信徒の志す—

随想

— 台風一過、夕映えに想う —

鎌田 新

 地球温暖化の影響を受け、観測史上初めて、東北地方に台風が上陸した。
しかも、Uターンして勢力を増したスーパー台風ということで、こちらでは皆、戦々恐々としていた次第だ。  
 津軽平野には、まだ色づき始めたばかりの、りんごの実を大急ぎで収穫した農家もあったであろうか、手の施しようがないままに突入。その晩、台風10号は青森県を逆袈裟切りに、斜めに通過して行った。
 「過越(すぎこし)の晩」よろしく、ここ夜越山も、どうなることかと戸締りを綿密にして待機したが、夜9時頃になってパタリと風は止み、静けさだけが漂った。なんだか、拍子抜けした感があって床に就いたのを覚えているが、周辺地域、すなわち北海道と岩手では、洪水による大変な被害があったという事を、あとでテレビのニュースで知って心を痛めた。
 今回あらためて、台風というのは、やはり「目」があり、それがちょうど真上を通り過ぎて行ったのだ。そして、その「目」の外側には、もの凄い暴風雨域を作るのだ、ということを実体験した。

 さて翌日は、台風一過の素晴らしい晴天。夕方には、優しい夕映えの光が、木々を照らし出していた。そんな美しいひと時、二階の窓から外の緑を眺めていたら、聖書の創世記にある天地創造の一節を想起した。
「こうして夕があり、朝があった。第1日。」(創世記1:5)

 「光」というのは実に世界の見え方を全く変えてしまうものである。すべてが吹き飛ばされてしまったあとに、そこには綺麗な空気で一新された世界が残った。自然界が、あたかも生まれたばかりのエデンの園にいるかのような、そんな瑞々しさを湛え、優しい光に映し出されていた。そんな光景を目の当たりにして(田舎暮らしの特権かもしれないが)、この世界の美しさを再認識することは、本来我々が、歓喜しまた謳歌すべきこの素晴らしい人生が、神の寛容とあわれみによって日々、与えられているという事実を思わされるのではないだろうか?

 フランスの亡きファッションデザイナー、ココ・シャネルは、「人生がわかるのは、逆境の時だ」と言った。私はこの言葉が好きだ。
人生に於ける様々の出来事が、その混沌の中で、ある時には壊れ、過ぎ去り、もしくは失われる。そのとき人は、何もない大地に一人立ち尽くして、悲しく、孤独で、つらいと感じるかもしれない。が、同時にそれらのことは、一切をクリアにし、我々の目からウロコを落として、進むべき道を示してくれる「魂の覚醒の時」でもあるという事を忘れてはいけない。シャネルの真意はそこにある。

 神の光に照らし出されて、神が創られた本来の美しい世界を認識することは、我々にもう一度、ゼロから人生をやり直す勇気を与えてくれるのではないだろうか。この美しい世界を。今日というこの与えられた一日を。心の底から感謝して生きて行きたい。そう、もう一度、やってみよう、たとい逆境にあっても、神からの勇気をいただいて。

(夜越山祈りの家キリスト教会 牧師)