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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—67

 今月も変わらず幸いな御言葉の学びが与えられたことを感謝しています。
 今回はまず士師記16章より、サムソンの生涯、その女性問題やペリシテ人との争い、そして最後の戦いと死のところを学びました。有名な箇所ですし、以前に映画でも観たことがありましたのでより具体的にイメージし易い内容でした。それで、単純な私は初め「なぜサムソンは自分の力の秘密をペリシテ人の女に明かしてしまったのだろう? そうか、男の人は女性を愛すると混乱し、訳が分からなくなるんだな。夫にも気をつけてもらおう。あ、いやいや息子もだ。」まあ大体そのようなところに目が行きました。私たちはサムソンのような人を見ると、その弱さや欠点にばかり目が行きがちです。しかし今回、嘉納先生のお話を通して、サムソンは自分の欲望と怒りのままに生きたように見えますが、彼は神に献げられたナジル人であり、行動した人であること、神は彼の行動を確かに用いられ、ご自身の御業をなさったこと、に気づかされました。
 普段の私は、その時その時自分は最善を選んだ、間違っていないと思うけれど、振り返るとなぜあの時気がつかなかったのか、人の話に耳を傾けなかったのか、などと後悔ばかりしています。しかし今回教えられたことは、確かに分析も大切ですが、神の御旨を知り、真理を知った者は、行動し、結実を生まなくてはならない、ということです。神と同じ方向を向き、一つ一つ気づかされた物事に真摯に取り組む者に、神は、自分勝手に生きているように思えるサムソンの生涯を、不思議な導きによってペリシテ人に一人で立ち向かい、多くの敵を滅ぼすという大きな業に変えてくださったように、結実へと向かわせて下さいます。
 隣人のために行動しようとする時、自分の弱さや、忙しさ、お金がないことなど色々な言い訳をして何もできなくなっていないか、と自らに問いました。また、50歳を過ぎた今、「この年になって・・・」と自分の年齢や立場などに縛られたり、人との関わりに億劫さを感じて手を出さないようになり、どんどん行動が小さくなりがちでした。しかし、年齢を経て来た今こそ隣人のために時間も財も惜しみなくささげていきたいと思わされました。
 集会ではいつものように自由な質問も許されていて、ある若い兄弟は礼拝のメッセージから「神が与えて下さった愛と恵みを運用しなさい、と語られましたが、この運用していくとはどういうことですか」という質問をしていました。私たちが神の救いに与かることができたのは神の憐れみと忍耐があったからで、それはそばに神が置いて下さった人々を通して、私たちを忍耐し、愛し、祈り続けて下さったおかげであり、今度は救われた自分が、隣人のために同じ忍耐と、恵みと愛を用いて神の福音のためにどう生きるかが大切である、と語られました。その注意点として、福音書のタラントの譬え話から、神がせっかく人間に期待して渡されたものを土に埋めてしまったところが語られていました。上のサムソンのところでも書きましたが、自らを省みる時、いつまでたっても考え方や行動が自分中心で、隣人のために犠牲を払うことから遠い者であることを思わせられます。何かを運用することにはリスクが伴うので恐れが先に立ち、何もしないのが一番良いと思いがちな者です。また、何をすれば良いか分からない時も他人に聞くことをせず、そうしているうちに自分で考えることすらも段々と出来なくなっていることも覚えます。独りよがりの信仰の中に居続けるならば、せっかく神が与えてくださった愛や恵みを運用せず土に埋め、年齢とともに、頭も心もどんどんと固くなって行く恐れを覚えます。
 もうひとたび神に従い、神に問い続け、神にすべてを明け渡す信仰に立たせていただき、心と霊を豊かに柔らかく保たせていただき、神が下さる恵みの中をのびのびと歩みたいと願いました。そして、私も何とかして神の壮大なご計画の中に生き続けさせていただきたく願います。
 9月で55歳になられた嘉納先生も、豊かに関わって神を教えてくれた両親と、忍耐と愛が豊かであったこの教会の中で生かされた幸いを、今は牧師として隣人のため教会のためにどう生きているか、など幸いなお証も交えたお話しをお聞きすることが出来、心が感謝で満たされた集会でした。

(執筆担当:山田 行 仙台聖泉キリスト教会会員)