同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(17)—

『では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』(ローマ 10:8-10)

 神に近づく人に、神は福音経験を与えてくださるのです。それが、私たちが神に近づいたことを明らかにします。
 真摯な信仰に歩んでいる男女が結婚したとします。するとこの二人はなんと近くなることでしょうか。福音経験は、人と神との間にそのような近さをもたらします。
 救われる以前の姿を聖書はこのように記します。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ 2:1-3)
「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」(エペソ 2:12-13)
「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」(エペソ 4:17-18)
 このようなものであった人々が救われて神に近づいたことが明快に記されています。
「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(エペソ 2:13)
 このみことばにまつわることは、救いの経験に関することですが、信仰生活の中でおきてくる様々なことを通して、私たちが成長を与えられる、つまり変化しますが、するとその変化が福音経験であり、それを与えられたと分かるのです。するとその場合でも、神に近づくことが許されたことを悟り、神はますます慕わしいお方になります。

 信仰の歩みを続けるなかで、次のようなことが期待され、それが約束されています。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ 2:20)
「ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ 4:21-24)

 キリスト共に十字架につけられる経験、キリストと共に生きる経験、そして神の義と聖をもって神にかたどられた人になることは、聖潔とよばれています。それをまだいただいていない方は、ぜひそれをいただいてください。
「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(テサロニケI 5:24)

 今回もうひとつ皆さんと考えたいことがあります。それは与えられた福音経験を証しすることです。
 預言者エゼキエルが見せられたことのなかに次のようなことが載せられています。彼の見た神殿から流れ出たいのちの川についてです。
「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。」(エゼキエル書 47:9-11)
 いのちの流れは川上からながれてきて川下に流れていきます。それが流れているときは、周囲にいのちをもたらします。
その流れが停滞すると、それは死に水となり悪臭を放ちます。
 福音経験は私たちに注がれるいのちの川です。それを証しによって川下に流さなければなりません。さもないと私たち自身が悪臭を放つものとなると思われます。

 冒頭のみことばにあるように「人はこころに信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
 救い、潔め、信仰生活なかでの福音経験を証しするお互いでありましょう。