同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第33回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<第7章 教会と聖潔>

 今回から第7章、教会と聖潔にはいります。本章がこの書の中心的な部分にあたります。 
本文に繰り返し主張されていますが、福音経験はひとりでできるものでなく、導くひとを要します。救いの経験も潔めの経験も等しくそうなのです。福音経験の中に生きるには、生きていく場が必要です。それが教会であり、教会のなかで、福音経験に与り、成長し、実を結ぶことができるのです。
 
以下に本文を掲載します。

・・・・・・・・
「教会は、真理の柱また土台です。」(テモテⅠ 3:15)
「キリストがそうされた(ご自身をささげられた、十字架にかかられた)のは、…聖く傷のないものとなった教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ 5:26-27)
「これらのわたしの兄弟達、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ 25:40)

 第5章救いの経綸において、神が人間に備えて下さった福音の内容を示しました。第6章聖霊と聖潔において、その神が備えられた福音の内容の、この地上で人間が信仰をもって歩む部分に対して、どのように聖霊が関わられるかということを述べました。本章では、その人間がこの地上で信仰をもって歩む場について考察します。その場こそ教会なのです。聖霊はキリストの霊であられ、キリストの体である教会に宿っておられます。
 「教会」と「聖潔」の間にどんな関係があるのでしょうか。
 私たちは、救いを求め、潔めを求めますが、使徒の働き以下の新約聖書は教会について記述しています。このことは、教会こそが聖霊の時代のテーマであることを示しています。なぜでしょうか。 
 「あなたがたは、永遠のいのちを得ようとおもって、(旧約)聖書を調べています。しかしその聖書は、『わたし(イエス・キリスト)』について述べているのです。」とのイエスの言葉を思い出さないでしょうか。新約の時代には、「あなたがたは、聖潔を得ようと思って、(新約)聖書を調べています。しかし、その聖書は、『わたし(キリスト)の体である教会』について述べているのです。」と。

 それでは、本当に聖書は教会について述べているのか、聖書を取り上げてみます。
 四福音書に見るイエス・キリストは、教会についはほとんど語られませんでした。しかし、ピリポ・カイザリヤ地方に行かれたとき、「あなたがたはわたしをだれだといいますか。」(マタイ 16:15)というイエスの質問に答えて、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ 16:16)と信仰告白したことを受けて、イエスは「あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ 16:18)と言われました。この内容は、イエスの世を去られた後に来るものは、教会であることと、その主導的役割をペテロが果たすことを示しています。プロテスタント教会の人々は、ローマ・カトリック教会の言い分を嫌って、この岩をペテロ以外のものにしたがりますが、素直にイエスの言葉はペテロを指していると言った方がよいのです。事実ペテロは、ユダヤ人の教会の始まりに主導的役割をしました。(使徒 2:14-42)また、はじめて異邦人を教会に加えたのもペテロでした。(使徒 10:1-2:18、11:1-8、15:1-33)ただ、イエスが言われたのは、ローマ・カトリック教会の主張のように、ペテロの権威がカトリックの祭司に受け継がれるのではなく、ペテロ自身が教会の誕生に主導的役割を果たすことだけです。いずれにしても、教会が建てられるということが、イエスの述べられた内容の主たることなのです。イエスが教会についてほとんど語られなかったのは、教会というテーマは、潔められることすなわち聖霊のバプテスマを受けること、聖霊に満たされることと同様に、聖霊がおいでになってから、弟子たちが理解できるようになるものであったからでした。「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたにはそれに耐える力がありません。しかしその方、すなわち真理の御霊が来るとあなたがたをすべての真理に導き入れます。」(ヨハネ 16:12-13)「助け主、…聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え…ます。」(ヨハネ 14:26)
 使徒の働きのはじめにおいて、聖霊が降臨されました。(使徒 2:1-4)次にペテロと使徒たちの働き(使徒 2:14-5:42)、またステパノをはじめとする次に加えられた働き人たち(使徒 6:1-8:40)の働きで教会が形成されました。やがてユダヤ人だけでなくサマリヤ人も(使徒 8:5-17)異邦人(使徒 10:1-48)も教会に加わるに至りました。
 そこにパウロが加えられて(使徒 9:1-30、使徒 11:25-26)異邦人世界への本格的な宣教が始められました。(使徒 13:1-28:31)使徒の働きの内容を要約するならば、”使徒の働きとは、聖霊の降臨と聖霊に満たされた人々が教会を建設したことに関する記述です。”と言えるでしょう。
 ローマ人への手紙には、「救いの教理」(ローマ 1:18-5:31)と、「潔めの教理」(ローマ 6:1-8:39)が説明されたあと、残りは全部教会の中でどう生きるべきかが解説されていて、「結実の教理」の解説というべきものです。
 コリント人への手紙は全部、教会の抱えた課題をどうすべきかを述べたものといっても過言でありません。「兄弟たちよ。私は、あなた方に向かって、御霊に属する人に対するように話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。…あなた方のあいだにねたみや争いがあることから…」(コリントⅠ 3:1-)「あなたがたの間に不品行があるということが言われています。…」(コリントⅠ 5:1-)「あなたがたの中には、…聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人が…」(コリントⅠ 6:11-)「…不品行を避けるために、男はそれぞれ自分の妻を持ち…」(コリントⅠ 7:1-)
以下、偶像のこと、かぶり物の風習のこと、愛餐のあり方、正餐のこと、御霊の賜のこと、愛について、キリストの復活について、信者の復活についてなどの解説が続きます。これらはみなその時コリントの教会が抱えていた問題をどのように扱ったらよいかの説明と指示です。
 コリント人への手紙第二は、最初の手紙とは何と違った内容となっていることでしょうか。そこにコリント教会の人々の大いなる成長をみます。前回の手紙では書くことの出来なかった、キリストにある苦難と聖霊による慰め、喜び、また心に聖霊の満たしを受けること、キリストの証人に加えられること、聖霊による自由と栄光への変貌、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識が与えられていることが述べられています。そして、そのすばらしい宝を土の器である肉体の中に宿している、今の艱難はやがて大いなる栄光をもたらすと。だから神の恵みをむだに受けないように、この世からしっかりと分離して、「神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(コリントⅡ 7:1)とパウロは勧めます。
 このように成長した教会の中にまた別の角度から問題が持ち込まれてきたことが伺われます。それは「にせ使徒」(コリントⅡ 11:13)に惑わされて、パウロの教えから離れていく危険でした。パウロは神から委ねられた使命に自分がどのように忠実に生きているかを示し、かれらが「キリストに対する真実と貞潔を失う」(コリントⅡ 11:3)ことがないようにさせました。「私たちはあなたがたが完全なものになることを祈っています。」(コリントⅡ 13:9)
 ガラテヤ人への手紙では、「忍び込んだにせ兄弟たち」(ガラテヤ 2:4)が問題でした。その中心的な論争点は、「旧約の律法」との決別でした。「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」(ガラテヤ 2:16)こと、これがパウロの主張でした。ガラテヤの教会の人々は、割礼派の人々に惑わされました。そのためにパウロが説明したことによって、旧約と新約との対比という視点から福音の内容が明らかになりました。私たちの古い人は「キリストとともに十字架につけられ」(ガラテヤ 2:20)、新しい人がキリストとともに生きるのであって、「キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ 2:20)こと、「キリストは自由を得させるために、私たちを(古い人、罪の性質から)解放してくださいました。」(ガラテヤ 5:1)パウロのこの働きによって、ガラテヤの教会が守られたのです。
  エペソ人への手紙では、イエス・キリストによって私たちが「天にあるすべての霊的祝福」(エペソ 1:3)に与るのだとパウロは書き始め、「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しをうけているのです。」(エペソ 1:7)「彼(御子)にあって、御国を受け継ぐ者ともなったのです。」(エペソ 1:11)と述べ、こう付け加えます。「あなたがたも…約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。」(エペソ 1:14)そして「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つキリストに教会をお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものをもって満たすことのできるかたの満ちておられる所です。」(エペソ 1:22-23)
 そして、エペソの教会に加えられた人々がかつてどのようなものであったか、すなわち、「罪過と罪との中に死んでいた…自分の肉の欲の中に生き、肉と心のおもむくままを行い…生まれながら御怒りを受くべき子ら」(エペソ 2:1-3)であったことを指し示します。
 しかし、このようなものが、約束の民とひとつになり、キリストの教会として建てあげられることが、神の「奥義」(エペソ 3:6)であるのです。
 以下、その奥義がいかに栄光に富んだものであるか解説されます。その奥義の神髄とも言えるものそれは「キリストと教会である」(エペソ 5:32)のであって、「(キリストは)教会をきよめて聖なるものとする…しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせる」(エペソ 5:26-27)ことのために己を捧げられたのだと解説されています。
 ピリピ人への手紙では、「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは主にあって一致してください。」(ピリピ 4:2)との、パウロの言葉から分かるように、教会の中に於ける一致が課題なのです。「…もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」(ピリピ 2:1-2)その一致は、キリストの心を心とすることによってできるのです。そのためパウロはキリストの心を指し示します。「キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕えるものの姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(ピリピ 2:6-7)と。
 コロサイ人への手紙では、「神の奥義であるキリスト」(コロサイ 2:2)、信仰の奥義である「あなたがたの中におられるキリスト」(コロサイ 1:27)が示されています。「御子は、見えない神のかたちであり、…万物は御子にあって造られ…。…御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物より先に存在し、万物は御子によって成り立っています。また御子はその体である教会のかしらです。…その十字架の血によって平和をつくり…御子によって和解させてくださったからです。」(コロサイ 1:15-20)
 「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちた御性質が形をとって宿っています。」(コロサイ 2:9)このキリストがあなたがたの中におられるのですから、「あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。」(コロサイ 2:10)
 「こういうわけですから、…上にあるものを求めなさい。」(コロサイ 3:1)、地上のからだである汚れたものを「殺してしまいなさい。」(コロサイ 3:5)そして、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。」(コロサイ 3:12)とパウロは勧めます。これを受けて、「妻たちよ。…。夫たちよ。…。子どもたちよ。…。父たちよ。…。奴隷たちよ。…。主人たちよ。…。」と、教会を構成している人々それぞれに、その立場に相応しいありかたをするようパウロは勧めています。

(仙台聖泉キリスト教会員)