同労者

キリスト教—信徒の志す—

回心物語

— ジョナサン・ゴーフォース <中国に伝道した神の人> —


<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:40人の美しい回心物語:
("40 FASCINATING Conversion STORIES" compiled by SAMUEL FISK (Kregel Publications)の中から、適宜選んで、毎週の週報に連載翻訳したものです。)から許可をえて転載。
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/kidakei/
にアクセスすると元の文を読むことができます。>


  ジョナサン・ゴーフォースは、確かに、使徒的人格を持っていた。彼は、その時代の人々の中で、神の英雄的宣教師たちの霊的巨人として群を抜いている。しかも、中国において、素晴らしい成功を収めた個人的功績を認められる最後の人物でもあろう。数千人ではないにしろ、数百人の人々が、彼の行く先々で、いつも回心した。
 中国での彼の働き場でリバイバルの炎が燃え上がっている間に、彼は、韓国において奉仕することを求められ、その地にも、同じように聖霊が注がれた。
 あの高潔な小説「スカイ・パイロット」の著者であるラルフ・コナー(チャールズ・W・ゴードン)は、ジョナサン・ゴーフォースと中国において旧友であった。ゴーフォースの死後、彼は、「ゴーフォースの人格的特徴は、本当に純真な霊、無私の献身、神への完全な信仰である。私は、もっともっと、彼の人となり、彼の謙遜、彼の勇気、彼の主への忠誠、彼の失われた魂を救いたいという情熱を称賛したいと思うようになった・・・彼の内にある神の恵みが、彼をして、偉大な人物、偉大な宣教師、偉大なイエス・キリストの僕とならせた。」
 そしてまた、彼が死んだ時、月刊ムーディは、ゴーフォースを「この、多くの人に尊敬され、愛された王の僕」として紹介し、「彼の証は、半世紀の間、銀の鈴のように明晰で美しく響きわたってきた。神の力強い御手がゴーフォースの上にあった。」と記した。
 私たちは、ゴーフォースの回心の物語を、彼の献身的な妻であったロザリンド・ゴーフォースが著した「中国のゴーフォース」から引用しよう。彼女は、ジョナサン自身が記した次の言葉で始める:「私は幼い頃からクリスチャンになりたかった。私が七歳の時、一人の婦人が私に真鍮の留め金のついた、欄外注釈入りの素晴らしい聖書を贈ってくれた。
これは、聖書を探求するもう一つのきっかけになった。私が十歳の時、ある日曜に、母と教会へ行った。その日は、聖餐式のある日曜日であった。母が、主の晩餐に与っている間、私は、傍らの席に座っていた。突然、もし神が私を天に召されたら、私は天国には入れないと迫られた。どんなに、クリスチャンになりたかったであろうか!誰かが、私に魂の救いについて語ってくれたなら、その時、私はキリストに心を明け渡したであろう。」
 しかし、それから8年以上の間、彼は、中途半端な状態にとどまった。ゴーフォース夫人は、更に物語を続ける:「ジョナサン・ゴーフォースは、今や、18歳になった。彼は、『勤勉で、いつも親切をすることができ、学ぶことに熱心で(それは見た目で、時には絶望することもあった)、彼の楽しく親しみのある振る舞いゆえに、すべての人から愛される良い青年』として知られていた。─しかし、彼はいまだに魂の覚醒がなかった。」
 ジョナサンは、キャメロン牧師が時々講演する地域の学校に行った。彼自身の教会の親切な牧師の話を聞きたくて、ジョナサンは礼拝に出席するようになった。彼の伝記を続いて読んでみよう:「彼が教会に出席した最初の日曜日、そこにいた一人の人は、次のように語っている。『その時から60年あまりが過ぎるが、私は、いまだに、一人の初めてやってきた青年が、牧師のすぐ前に座り、熱心に、顔を輝かせて、一心不乱に、説教のことば一つ一つに傾聴している姿を見ることができる。』」  「説教の最後に、決まって、決断するようにと明確に促すのが、キャメロン牧師の変わらぬ習慣であった。キャメロン牧師のもとでの三回目の日曜日に、何が起きたかを、ジョナサン自身の言葉で伝えよう:『その日曜日、説教の最中に、キャメロン牧師は私の方をまっすぐに見て、イエス・キリストを受け入れていない人はすべて、彼を受け入れるようにと嘆願したように見えた。彼の言葉は、私の心にぐさっと突き刺さった。そして、私は、“説教が終わる前に決断しなければならない”と自分自身に言い聞かせた。しかし、一方で、牧師は、いつもの習慣で、突然、説教をやめ祈りはじめた。祈りの間、悪しき者は、“別の週に、決断を延期しろ”とささやいた。そして、突然、祈りが終わり、キャメロン牧師は講壇から身を乗り出すようにして、非常に力強く、熱烈に、再び、決断を促した。
そこに座っていた私は、外側に見えるしるしは頭を下げただけであったが、自分自身をキリストに明け渡した。』
 「彼の後の生涯を見るとき、この時の明け渡しがいかに完全であったかを見ることができる。それはまた、彼が75歳の誕生日に、娘に口述した次の言葉からもわかる:『私の18歳の時の回心は単純であったけれども、非常に徹底していたので、その後ずっと、私はパウロと共に、“・・・キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。”と言うことができた。』
 他の人は、ゴーフォースについて、「彼が自分自身の魂がイエス・キリストを必要としていることを見出したとき、イエス・キリストをすべての魂に持ち運ぶことが、彼の情熱となった。」と言う。
 中国において、病気と困苦によって、ゴーフォース一家は、かわいい五人の子どもが様々の年齢で死ぬのを見、宿るところのない土地に葬らねばならなかった。彼等は、義和団の乱の最中に行ったが、他の宣教師たちが命を落とした場所で、大変な苦しみに耐えて、神に無事守っていただいた。
 ゴーフォースは、1925年1月28日(金)にワシントン,D.C.において開かれた、大きな宣教師大会に参加するよう要請された。その経過が記された大巻の中に、カルビン・クーリッジ総裁の開会の挨拶と共に、ゴーフォースの説教が掲載されている。その中で、彼は、「37年前、私は、主イエス・キリストは中国人を主ご自身に勝ち取ることがお出来になるまたそうなさるとかたく信じて、中国へ行きました・・・私は聖霊により頼んで、福音をすべての人に、力強く語ってきました。キリスト・イエスにある神の愛の物語を語るとき、私は、人々が信じ回心するのを見ました・・・」