同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— いま一度「漸進的聖化」について考える —


 先に述べたように、この道の古い人々は漸進的聖化、漸進的きよめ(聖潔)、漸進的キリスト者の完全とは言いませんでした。しかしここにきて、きよめ派のひとびとの間で漸進的聖化が多く語られるようになっていると感じるので、私は危機感を覚えるのです。

 きよめを求めている人々に是非次のことを知っていて頂きたいと思います。

・真摯な信仰生活は、きよめに与っていようがいまいが、すべてのキリスト者にとって絶対に必要なことです。それなしに、きよめられたいと願っても、ありえない願いであって、それは虚しい願いです。

・しかし、真摯な信仰生活が聖化なのではありません。真摯な信仰生活によって聖化の恵みに達するであろうと思ってはなりません。
それは、救われる(罪の赦しと新生の恵みに与る)ことと比較してみると分かります。真摯な信仰生活によって聖化の恵みに与ろうとするのは、「善行によって救われようとする」のと同じです。実例として、ニコデモが敬虔なよい人物であったことは間違いありません。しかしその延長にイエスの言われた神の国はありませんでした。彼は新しく生まれなければなりませんでした。
 同様に、救われて敬虔に真摯な信仰生活を送っている人も、イエスが約束された「聖霊のバプテスマ」を受け、聖霊に満たされた人にならないならば、ペンテコステの前の弟子たちのように生きることになります。それを受ける道は、聖霊を遣わすと言われたイエスの約束を「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネⅠ 1:7)というみことばを通して信じることにあります。それによって「キリストと共に死に、キリストにあって生きる」ことが実現します。
 その時、その恵みを受ける以前に遙にまさって、真摯な信仰生活を送れるようになります。
ウェスレイは、「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する、これがキリスト者の完全である」と言いましたが、恵みをいただいた結果それができる人になるのです。

 きよめの恵みに与って、真摯な信仰生活をしている方々に次のことを知っていて頂きたいと思います。

・頂いた恵み「聖性」は神のご性質であって、それを人が持っているというのは、聖化の恵みに与ったことのない人々にとっては、人が「ホーリー、神聖」であるとしている<とてつもない>主張なのです。

 「聖性」は神の属性であって、人がいくら品性を磨いても神の属性には至りません。同じことを繰り返し述べていますが、聖霊が人に住まれ、人が聖霊と一体になっているために、その聖性が人のものとなっているのであって、聖性は人の品性の総合ではありません。与えられた聖化の恵みはそのくらい素晴らしいものなのです。

・成長とともに、より聖くなるとする「漸進的聖化」の発想はどこから生じてくるかというと、この「聖性」が、人の義、愛、献身、熟練してより多くの働きができることなどの総合と考えるからです。ですから成長と共により聖くなると思うのです。

 漸進的聖化によって栄化に至ると思う人々もいますが、栄化もまた瞬時のできごとであって、だんだんそこに至るものではありません。(テサロイケⅠ 4:16-17)

 救いに与ったときから聖化が始まるといいますが、それは聖化の恵みに与る過程が始まるのであってだんだん聖くなって聖化に至るのではありません。
そのはじめの状態は、神の幕屋に聖霊が来て住まわれることによってみごとに表現されています。エゼキエル書に書かれているようにそのお方は「主の栄光」です。けれども、幕屋の奥の隔ての帳の中にひっそりおられます。幕屋はジュゴンの皮の天幕で外側を覆われ、見栄えがしません。ああ天幕があるというだけです。そのため、自分でもそのお方に気づかず「あなた方のうちに聖霊がおられるのを知らないのですか?」と言われてしまいます。けれども、聖霊が内に住んでいてくださるので救われた人は聖であり、聖徒と呼ばれるのに相応しいのです。その人の品性の故に聖なのではありません。しかし、救いはその人によい品性を与えます。

「イエスが栄光を受けられて」新しい時代が到来しました。神殿の奥を隔てていた幕は裂け、主の栄光は外に出られ、信じる人々に注がれてその人の内に住まわれるようになりました。それで聖霊に満たされた人は聖なのです。その人の品性の故に聖なのではありません。しかし、聖化はその人に極めてよい品性を与えます。

・先に聖化の恵みに与った人の事例をよく考えて頂きたいと思います。聖化は瞬時に与えられるものです。

故山本岩次郎牧師は、奥様の対応に気に入らないことがあって、「そういえば、家内にはこう言う悪い点がある、ああいう悪い点がある・・」と奥様の欠点を数え上げた時、神が「それがお前だ!」と指摘されたそうです。それで直ちに悔い改めた時きよめの恵みに与ったと証していました。

 神が指摘されることは様々ですが、握って離さないものがあり「神よ、他のものは何でもあなたの御心のままにいたしますが、これだけは勘弁してください。」というものがあるとき、それこそが聖化の恵みの障碍なのです。そのことを手放して神に従うなら、聖化の恵みはただちに与えられます。その後は、御旨に従って生きるといいますが、いつも握っていたものを手放す時のような緊張にいることはありません。神は自由に生きさせて下さるのです。
その自由は恵みを受ける前にはないものです。恵みに与る前は、手放したくないものを、神にどうする?といわれると思って、いつも神を恐れていることになります。それで平安も自由もないのですが、それを手放して恵みを受けるなら平安と自由が与えられます。「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」