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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-114  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 8 章

 この箇所は先日祈祷会でも取り上げたところであり、ダビデが王としての支配がだんだんと形になってきたことが分かる。この話もその中の一つであり、ダビデの戦いとその勝利が語られている。先月はダビデにナタンを通して与えられた祝福について取り上げたが、そこで語られた通り、神の恵みと祝福が与えられていることをダビデは自分のものとして受け、喜び感謝した。実際、戦いによってその支配というものは、周りに大きく及んだのである。また、このダビデの支配した地域というものに目を留めてみたい。ここは創世記でアブラムが神と共に約束した際に彼の子孫に与えられることとなっていた地域と同じである。サムエル記にはダビデが行った戦争一つ一つの内容、その勝利というものが書かれているがそれでは終わらない。その後どのようにその支配が行われたのか、ということも語られているのだ。そして、その中で神からの恩恵を受ける者たちも多く出てきている。それが計算されたものなのかということは分からない。しかし、これらのことが行われていく中で、神がアブラハムに約束されたことが形になっていった事実がこのところで表されているである。実際にこの約束がなされてから1000年がたっている。この約束はアブラハムが直接的に戦い、支配すると言われていたわけではなく、彼の子孫がそのことを成すと語られていた。そしてそれは神が理想的なものや思想的なもの、「こうなったらいいな」というものではなく、1000年という時を経ても必ずそのことを成就されることが明らかにされるためであり、ダビデの王国が永遠に立つという言葉も同じように成就することがそれを信じる者の前に示されたのである。もちろん本当の意味においての神の摂理がなされるのはこの後に与えられるイエス・キリストの誕生を通してであり、そこではじめて、アブラハムとダビデとの約束が完全に成就するのである。
またこの神の御計画の中に私たちは生かされていることを知る必要がある。これは決して聖書の歴史に見て終わるものではない。私たちの中にもあり、それは実現する。私たちは神を信じるものとして神が表されるように生きることが求められているのである。聖書の時代の人物と同じように自らの行動を通して神を表すことができるのである。私たち一人一人が行ったところでどれだけ影響があるかと思われる人もいるかもしれない。しかし、神は私たちを用いようとされ、そこに御業が現れることを望んでおられる。私たちの教会はクリスチャン3代目、4代目が多くいる。それは、すなわち神の御業であり、私たちの信仰が形を成したということなのである。このことは私たちに関わる人々に確かな影響を与えている。そしてそれは決して小さなものではない。このクリスチャンホームが確かに形成されることで神の恵みと祝福が形作られていくのである。今日読んだところでは戦いということが取り上げられ、王としてのダビデの姿が取り上げられている。また15節にはダビデが「イスラエルのすべてのものに正しい裁きを行った」と語られている。ダビデは神から祝福と恵み、勝利を含め王として立てられ、また彼だけで終わらずその子孫も王家として立っていくその任命を与えられた。だからこそ、彼はその任命に自らの責任をもって応えていかなければならなかったのである。実際彼はその召しに応えようとした。それがこのイスラエルを治めること、その中で正しい裁きを行っていくことだったのである。私たちも神が選び、任命しておられる。だからこそ、相応しくこの世にあって生きるべきである。それなのに、どうしても自分の損得にばかり目が行って、自分の立場をあいまいにしてしまいがちである。人々に認められるときには表に出しているけれども、立場が悪くなると隠れているようではいけない。私たちは自らの立場を周りに明かしつつ生きていくべきである。そして様々な人との交わりの中で、自らがイエス・キリストの救いによって贖われたものとして戦い、そこで勝利を収めていくことが必要なのである。神はダビデと共に戦われたように私たちと共にいて戦ってくださる。なお、この日々の戦いを勝ち取っていきたく願う。 


Q:先日の祈祷会でサムエル記Ⅱ15章が開かれ、聖書が人間ダビデを赤裸々に語っていることが取り上げられましたが、ダビデは自らの力、勢力が増し加えられていることを恐れなかったのでしょうか。

A:確かに勢力の広がりが聖書の中で強調されている。しかし、ダビデにとっては最初から最後までつながっている出来事なのである。彼は生涯を通して戦いの人だった。それは多くの血を流したゆえに神殿の建設に携われないといわれるほどだったという事実からも読み取ることができる。初心者のうちから莫大なものを手にすれば恐れを抱くかもしれないが、彼は若い時からだんだんと力を得ていった。だからこそ、それに恐れを抱くことはなかっただろう。彼は力をつけると同時に、失敗も経験し、多くを学んだからこそリスクを管理し挑戦し、物事を進めていけたのである。その時の身の丈に応じて彼にはだんだんと多くのものがゆだねられるようになったのである。
では自分の身の丈に合う程度とはどのくらいなのかといわれると難しいことだ。私たちは物事に挑んで範囲を広げていくこともあるし、逆に身の丈を自分で決めて範囲を設定することもある。時に自分で身の丈を決めるというとあまりよくない印象を与えることもあるが実は必要な時もある。老牧師は60人程度の教会がいいと語っていた。100、200人規模の教会を目指さなかったわけではなかったが、自分の身の丈を考え範囲を決め、そこまで手を伸ばすことをしなかった。その恩恵を受けたのは私である。老牧師は様々なところに出て行って働きをしなかった。しかしその分、子どもと関わる時間を大切にした。だからこそ、私は信仰を持たず教会から飛び出していってしまうということはなかった。今、後を継いだ私は自分の身の丈を計りつつ、どのようにして教会の中で牧会をしていくかと考え続けている。継ぐということで維持していけばいいのではと思う方もいるかもしれないが、私は挑戦をしていかなければならないと考えている。それは、維持していこうと思うだけでは低迷してしまうものだからである。挑戦を続けることでそれを打破し、なお維持し、少しずつ成長するようにしていくことができるのである。
ダビデという人物は相当賢かっただろう。もちろん聖書は彼の賢さを語ろうとはしていないが、それでも彼の賢さは見て取れる。ダビデは必ず重要なポストには2人の人物を置いた。軍団長も、預言者も、祭司でさえも。彼はそれによって互いに競わせることで能力の向上を図るとともに牽制し合うことで自分の地位に危険が及ばないようにしていたのである。彼のように私たちも自分の力を見極め、目標を見据えて冷静にことを進めていかなければならない。ただ怠惰に神の力のみに自らを委ねているようではいけない。自らに与えられたものを最大限に用いてことを進めていくべきである。そのうえで、自らの力や知恵の足りないことを承知して遜りつつ努めるべきである。


Q:聖書研究会の中でダビデの詩篇を学びましたが、ヨアブは生涯ダビデの邪魔をしたということが語られていたのですが、ダビデはなぜ、ヨアブを用い続けたのでしょうか。

A:様々なことはあったが、もっとも重要な問題は、信仰についてである。ダビデは彼の存在を承知することはできた。しかし、ヨアブは生涯変わらなかった。ヨアブの信仰とダビデの信仰が一致しなかったのである。ただ、こと王国に関することで考えれば、ヨアブはとても力ある人物だった。ダビデもヨアブも王国の繁栄、そして自らも祝福されることを願っていた。しかし、その方向性が完全に一致しなかったからこそ、このようなことが起こり、ヨアブはダビデを悩ませる存在になってしまったのである。夫婦も同じで信仰者でお互いクリスチャンだとしても、一致していかない可能性もある。「僕はこれを信じる」と言っても「私の信仰としてはそう思わない」といわれるかもしれない。別に互いに足を引っ張ろうと考えているわけではない。しかし、それぞれが考えているからこそ、このようなことが起こるのである。だからと言って、そのままでいいわけではない。ヨアブはダビデに対して一定の考えを示していたし、ダビデは彼が自らの考えで行動することを抑制するということはしなかった。というのもヨアブがイエスマンになることを望んでいたわけではないからである。ただ、最終的にダビデは自らの信仰による行動を示したし、その行動に対して、責任を持った。そして同時に、ヨアブにもその行動の責任を求めたのである。教会の行事というものはその人の信仰が表されるためにある。関わりの中でその人の人間性や、信仰が見えてくる。それは良いとか悪いとかいうものではなく、互いが影響し合い、励まされたり力付けられたりするためのもりなのである。夫婦でことを決める時、本当に信仰によってきめられているかどうかによってクリスチャンホームと呼べるのではないだろうかと私は考える。家庭の大切なことが信仰ではないもので決められていれば信仰者として成り立たない。経済が保たれれば、生活ができればそれでよいというものではいけない。またすべてが後付けのように信仰がついてくるようでもいけない。祈りも何もせずにいたのに、経済が保たれ守られれば「神が与えてくださった」などと言っているようではいけないのである。心から祈り求め、神の力を信じることが信仰であり、そこに神の答えが表れることが信仰の実践なのである。ダビデの戦いはただの戦争ではなく、そのすべてが信仰による戦いだったのである。だからこそ、彼はそこに生きて神の力を表すことができたのである。
話を戻すと、ヨアブは知恵と行動力によって自分の地位を守りつつ力を示し続けていた。ダビデはヨアブを危ぶんでもいたがヨアブを利用している部分もある。彼はバテシェバの問題でウリヤを殺害しようとしたときにその実行を任せたのはヨアブである。ヨアブはきっとすぐに察しただろう。ダビデは自らの罪を隠蔽しようとしたとき、危惧していたヨアブの力すら使ってまで行おうとしているのである。ここに人間の罪の恐ろしさも読み取れる。私たちは罪を隠そうとするとき、どんな方法を使ってでも実行しようとする怖さがある。ヨアブのように実力のある人は手ごわい。同じような人は私たちの周りにもいる。だからこそ、私たちはその力をどのようにして引き入れていくかが重要である。神は信仰を通して、どのように人と関わるかを示しておられる。距離をとってしまうのは簡単だが、そこで信仰を持ちつつ、その人と関わることで得られるものも多い。なおあなた自身も多くの人と信仰を持った関わりを続けてほしいと願う。


Q:会社で指示を待たずに行動することを求められる時があるのですが、この信仰の世界では神の指示を待たずに行動するということはあるのでしょうか。神の言葉を待てずに滅びを受けることは聞いたことがあるのですが、逆の場合もあるのでしょうか。

A:私たちの世界の中で細かいことや本来決まっていることはいちいち神に尋ねることはない。しかし、急にことが起こって、自らの考えの中で動き、誤った選択をしてしまう時もある。特にこれは若い時に起こりやすい。緊急だと思ったらそうではなく、思い込んだだけで神の御心はほかにあったということも多い。だからこそ、どのようにすべきかと相談の機会を持つときがある。私たち牧会者のもとに尋ねてきて、共に考えることが重要である。それは私たちができるとか優秀だから、ものが分かっているからというわけではなく、違う視点や要素、信仰的思考を投げかけ、神のみ旨を共に探ろうとしているわけである。自分のしたいことを勝手に神の御心に置き換えてしまわないようにするために相談の機会はある。そのような営みをする中で遜って神の御心を探っていくのである。もちろんそれが自分の考えていることと一致するときもある。それはどのようになるかわからない。聖書に書かれている時代から、神に任命され信仰者が相談する人物が立てられている。預言者などがそれにあたる。彼らは人々が信仰を全うし神のもとに生きることができるように仕えることが責任である。その責任を果たそうとするのは彼らが心から神の御心を全うしようと願うからである。ダビデにその罪を示したナタンも殺されてしまうかもしれないなかでダビデの罪を言い表して彼を罪に定めたし、ダビデはそこで王としてナタンを殺してしまうこともできたが彼の言葉に遜った。それが神の働きに任命された者と信仰者との関係なのである。
教会はそのことが特に表される場である。そのような神が召された者との関わりのなかで神の御心を探り、歩み、導かれ、それが祝福や恵みにつながり、証に現れる中で神に栄光を帰すことができるのである。 以前あなたのところに新しい仕事への誘いが来たが、あなたはそれに対して私と共に考え、最終的には断った。確かにそれはあなたが祈り求めていたキリスト教の教師という仕事であったし、あなたが抱えている現在の仕事も苦労が多くやめたいと思っていた時だった。ただ、あなたは一人で決めて来なかったし、妥協もしなかった。そして私の前にいいところだけを並べて、こっちで働きたいということもしなかった。あなたはきちんと条件や相手の反応、懸念などを提示し私と共に考えた。結果、あなたが祈祷会を大切にするために間に合うように退勤したいという意思を伝えた時、宗教担当者であるにもかかわらず相手が「祈祷会をそこまで大切にするのですか」という言葉に懸念を抱いたという点から、この話を断ることに決めた。私はこのことに共に携われたことを感謝する。そして、あなたが信仰生活を守るために決して自らの思うように行動し妥協するのではなく、神のみ旨を求め続けた姿を私は心から尊敬する。


Q:メッセージで語られている、立場を鮮明にするということは大いなる人生の岐路になるということが語られていましたが、どういうことでしょうか。

A:先ほどの話で取り上げた宗教担当の先生の「祈祷会をそこまで大切にするのですか?」という言葉は私からすれば、その人の信仰の立場を表した重大な一言と言える。祈祷会を守ることの意味合いを理解していればこのような言葉は出ないだろう。私たちは週の半ばのこの祈祷会でもう一度、神にお会いし力付けられる必要がある。そのことを理解していないのだろう。
私たちは神から様々なものを求められる。力も、知恵も、時間も、そしていのちをも御国のために潔く捧げられるかということまで求められる時がある。神が所望されたタイミングでそれが行えるということで自分の立場を鮮明にすることになる。それがその人にとって決定的な人生の岐路になる。もちろんそのような生命まで求められるようなことが示されることはマレである。しかし、私たちの立場を揺らがせるような出来事は起こりうる。その誘惑や挑戦の中で、私たちの立場を鮮明にし、表し続けることが大切なのである。
彼は中高の聖書の先生の資格を持っている。仙台市には4つ働き先があるが、狭き門であり、求人自体が出ない。今回の仕事も山形県からの要請だった。彼は今まで清掃公社でごみ収集の仕事をすることに対してきつい仕事であるが、それでも導かれた所なので働き続けるということを常に言い続けていた。しかし、最近ハードワークの中でその心が揺らいでいた。このままこの大変な日々が続くのかと悩んでいたのだ。そのタイミングを狙ったようにこの話が来た。私はその恐ろしさを垣間見た。彼はその話に大きく揺らいでいた。しかし、彼は相手の言葉を聞き逃さなかったし、妥協して自らの立場を危うくもしなかった。彼は、信仰者としての立場を鮮明にし、先方の前に表し続けたのである。


Q:マタイによる福音書の10章16節を読んで、蛇のように聡く、ハトのように素直でありなさいという言葉にどのような意味が込められているのかを知りたいのですが。

A:賢すぎて素直さを欠いてはいけないし、素直すぎて愚かではいけないということを示しているのである。イエス・キリストは弟子に教える際に、信仰者としてどうあるべきかと示されたのである。 私たちはそのようなことを子どもに教えていかなければならない。どうやって素直であり、賢く育てていくか、導いていくかということを考えていく必要がある。どのような機会でそれを投げかけていくか、時には子どもを悩ませていかなければならない。子ども巣立っていくまでの間に。あなたの子どももこれから保育所に入っていくが、子どもはそこのものを必ず家に輸入してくる。それをどのように水際で止めていくかということに悩んでいる兄弟姉妹もいる。もちろん完全否定することが重要なのではない。それでは保育所で生きていけない。しかし、すべてを受け入れていては、悪いこともそのままになってしまう。だからこそ、その両立が必要なのである。これは信仰者が世の中で生きていくために必要なのである。私たちは子どもたちが幼いうちから罪を犯せば、それをともに悔い改め、祈るということをする。それは、罪や悔い改め等はまだわからないと蔑ろにして、注意だけして終わるのではなく、幼いうちからそのような神との関わりができるように教えていくためである。子どもが手の内にある間は子どもの罪に対してキリストの贖いと悔い改めを求めていかなければならない。しかし、それは厳しいことである。子どもたちは知恵がつけば嘘もつくし、隠そうとする。それでも幼いうちは対峙していればわかるし、悔い改めを迫ることができる。それを行っていくことで成長してほとんど手から離れた時に子どもが親にわからないように罪を犯すようになっても子ども自身の中に育まれた罪意識が悔い改めへと導いていく鍵になっていく。嘘ごまかしがないことと、神の前に真実に生きるということの自由さというものはかけがえのない幸いである。それを知っているか、否かでもその生き方が大きく変わるものである。私たちは罪があるからこそ、神との距離を取ろうとしてしまう。しかし、それから解放され罪を悔い改めた時、神との良好な関係を作ることができる。
我が家では子供が従わないときには家の中に入れてもらえないということがあり、許しを求めても、罪に対する刑罰は変わらずあった。それは年齢分おしりをたたかれるということである。しかし、子どもはそれを嫌がるものである。それでもそれを受け入れないうちは両親との良好な関係は作れない。だからこそ葛藤の中で自ら罪に対する贖罪を求めるのである。それほどの罪であることを子どもたちが認識するためにこのことが重要だったのである。


Q:以前、悟った気になってはならないと語られたことがあるのですが、それはどのように改善していけばよいでしょうか。

A:悟りというのは知識だけでなく、実践が必要である。実践して身について初めて悟ることができるのである。悟ったつもりというのは形にならず、実践されていないことである。先の質問の中で私たちは御心というものを自分で勝手に作ってしまうことを語った。御心という言葉はほかの人の介入を防いでしまうものになる。本来はほかの人の介入や、その出来事に対する検証が必要なものである。しかし、この言葉が出てしまうとそれができないのである。
最近会堂の掃除をしている彼はそれが心からしたかったのである。なぜなら彼にとって会堂掃除は恵みが与えられることだからである。しかし、今まで若い人たちがそれを行っていたために、その恵みを横取りしてはいけないと思って身を引いていた。しかし、いま会堂掃除をする若い人たちが仕事に就き、忙しさに追われるようになり、その働きができなくなってしまった。だからこそ彼は働きをする人がいないならと今では土曜日だけでなく、祈祷会前にも来て掃除をしている。真心から彼にこのことをさせるのは、会堂掃除をすることで得られる恵みを悟ったからなのである。今のあなたは救われたころよりも心配事が増え、決断する機会が多くなり、悩む機会もあるだろう。時には即決できず、時間が過ぎてしまうこともある。しかし、それはあなたの性格であり、昔よりも持っているもの大切なものが多くなってきているからである。だからこそ、あなたに夫として違う人格が与えられたのである。それは、相手を信頼するということが言葉だけではなく、信仰の営みを通して尊敬できる点を見出していく中で心からできるようになり、更に家庭の中に神の臨在を信じることができるようになるからである。そのような中であなたも娘を育てていかないと、あなたの心配を肯定的にとる場合や、否定的、ネガティブにとる場合がある。以前「子どもは母性で育てるのではなく、信仰で育てなさい」ということを語ったが、これも同じで、子どもがかわいそう、危ないからと取り組ませないのではなく、大変な中でも信仰をもって取り組んでみなさいと子どもを見守ることができるのである。だからこそ、結婚するべきであるし、家庭を築くべきである。あなたはその中でこれからも取り組みながら、成長し、悟っていく必要があるのである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)