同労者

キリスト教—信徒の志す—

寄  稿

— イースターの朝に —

〜魂の救いと本当の希望について〜

鎌田 新


「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。」(ローマ 10:9-10)

 受難日は神が人類のために与えられた救い主が、約2000年前、十字架上で全ての人の罪をその身に負い、聖なる血を流し死なれた事を記念する日です。
 人は皆、誰しもが罪の性質を持ってこの世に生まれ、それ故にやがて死ななければならない運命にある、これが聖書の論法です。
 人は自分の意志や努力によってはその根深い罪の性質から抜け出す事はできない。救い主、神の御子が天から下り、神の力による処女受胎を通して人としてこの世界に生まれ、自分を救う事の出来ない人間の罪を贖うために、ご自身を捧げられた。これがキリストの十字架上の苦難と死の意味です。
 しかし、神はその聖なる方を墓の中に朽ちるままには捨て置かれず、死んで後、三日目に死から甦らせる事により、神が死を滅ぼす事のできるお方である事を公に示されました。
 イースターは、このキリストの復活を記念する日です。何故それが大いなる祝いになるのかというと、それは正に私たち自身の命の復活と直に繋がる出来事であるからなのです。
 私たちは皆、何十年後かには自分がこの世から消えて、いなくなる事を知っています。人は生きているうちは、死ぬという経験をする事は無いので、もちろん実感は湧きませんが、私たちは100%間違い無く死ぬでしょう。
 しかし、今はまだ死ぬ事など考えたくはない、生きるのに忙しい。その時はその時だ、と思うのが関の山ではないでしょうか。
 そうこうしているうち、やがて私たちは歳をとり、死に対する何の準備も出来ないまま、その時を迎える・・・多くの人はそうです。

 または突然、その時が訪れるかもしれません。人はいつ自分が死ぬか、確かなところはわからないからです。 
 しかし、あなたがもし自分の人生にまともに向き合う人なら、人生最大の問題である死という問題は避けて通る事が出来ないでしょう。もし死というものが無かっ
たら、ハッキリ言って人生には何の悩みも無くなります。何度失敗しても、どんな問題があろうとも、死ぬ心配がなければ、時間が全てを解決へと運ぶでしょう。ただ現実は違うという事なのです。

 こう考えると、この死という逃れられない現実こそが、全ての問題の根源である事がお分かりいただけるかと思います。また人類の抱える罪こそが、その本質的な力なのです。 聖書には、人は死ぬ事と死後にその魂が神の前に裁かれる事が定められている、とあります。

 救い主を信じ神の裁きを免れ、死んで後は新しく死なない身体を与えられ、永遠に神と共に生きる天の国に入るか、または神の用意された救い主による贖いの業、即ち罪の赦しを拒否して信じ受け入れることをせず、この世の悪の根源である悪霊どもと共に、永遠の刑罰に投げ込まれるか、この二択しか無い事を聖書は明確に語っています。

 ジョン・レノンはイマジンという曲の中で、「想像してごらん、天国も地獄も無いと、宗教も国境もないと、世界が皆で分かち合い・・」と歌いました。 とても素敵な曲ですが、彼の歌った意味でのLove & peaceの理想と現実世界とは掛け離れています。また宗教が対立を引き起こすという考えも一面では正しいのですが、それはどの宗教の中にも過激な人々がおり、その人たちが目立つからであり、例えばその手のキリスト教徒と自称する人たちが、キリストの教えを理解しているかは甚だ疑わしい訳で、寧ろ権力闘争や利害で動いているのが実際のところでしょう。

 キリストを否定することは、ある意味で自分を神より上とすることです。聖書の言葉を否定するのも、自分を聖書の権威よりも上だとする事と変わりません。ですから信仰とは、その基盤となる聖書を神の言葉として受け入れられるか、それとも人間の知恵を基盤として世界を理解するのかと言う問いでもあります。

 そして科学万能の現代において、残念ながら進化論をはじめ、人類学、生命科学、天文学、地球物理学などあらゆる分野が発展するにつれ、平然と神は否定され、聖書は非科学的であるとする流れが出来ています。即ち神が居なくても、生命は生まれ、そして勝手に進化し、人間は存在自体に意味を持たない、つまり人生には意味など無いという結論が引き出されています。即ち賢明な人々にとって神という概念は、もはや愚かな考えと見なされるようになりました。

 そのような社会環境に生きる私たちには、罪という古臭い宗教用語を言われても、なかなかピンと来ませんし、犯罪者でもない自分を罪ある存在とは思い難く、ましてや神を求めるなど、下手なカルト宗教に関わりたくはない、とばかりに警戒心を抱いて距離を置きます。一方で人々の生活には宗教が社会慣習として密着してもいます。これは矛盾のようにも見える現象です。統計上、世界人口の多くは何らかの宗教に属しているのですから。

 そして世界の最先端の科学者の中にも神を信じる人々は多くいますし、無限に広い宇宙を観れば、人間の知っているところはほんの一部であり、何も知らないに等しいとも言えます。 また自分の人生に意味がないと思って生きている人はいないからです。いるとすれば、その人は自殺に走るか、言っている事とやっている事が矛盾している人ではないでしょうか?頭で神を否定しても、心は人生に意味や価値を求めているからです。そして、神の存在がなければ、前述の通り、生命に意味は無くなります。

 平たく言うと死んでみなければ、真実はわからないのですが、死んでからではもう遅いのです。
 また人生に悩んでいる人にとって理屈は無意味で、何の救いにもなりません。人とは魂を持つ存在だからです。
 さて聖書には神の前に罪ある者である事を認め、キリストから直接赦しを宣言された人々の物語が多く記されています。

 神に出会うとき、人は自身の罪深さを見ざるを得ないからです。そして罪を赦す権威を持つのは神ご自身だけです。「心の貧しい人は幸いである」とは、そのように自分の罪深さを自覚した人の事であり、そのあとには「神の国はあなたがたのものであるから」と言うキリストの言葉が続きます。

 このイースターの時、神の前に自らの罪を告白し、キリストの十字架上での贖いを自分のものとして、この方を信じる者に約束された死をも飲み込んでしまう永遠の命という神の約束に与りましょう。

 そしてその上で、自分の力だけで苦闘して歩み、たとえいかなるこの世の成功を手にしても、最期には死と共に全てが終わる人生ではなく、魂に救いを得て、神と共に、神に導かれて歩み、死を乗り越えて永遠へと続く人生をチャンスのあるうちに選択しようではありませんか。

 あなたがもし今、人生に失望しているなら、または何らかの理由で、自分自身に絶望を抱いてしまっており、人生に何の希望も持てないような状態にあるなら、あなたの傷ついた、弱り果てた魂を救う事のできる力は、この世にただ一つです。それは救い主である方の、犠牲の血です。この聖なる血が、あなたの傷を癒やし、あなたを如何なる罪穢れからも完全に清め、あなたの魂に生きる希望を与え、あなたを守り、あなたを雪のように白くし、あなたに罪の赦しと、永遠の命を与え、あなたを神の子供とし、あなたを神の目に全く新しい者と創り変え、あなたの過去は過ぎ去り、新しく人生をスタートできるのです。

 今度は神が共におられる人生となります。信じるという事はある意味で、清水の舞台から飛び降りる決断をする事に似ています。
半端な気持ちで信じるなら、揺れ動く半端な信仰者となるのが落ちでしょう。
 魂が砕かれ、人生に疲れ果てたあなたに、神はいつも愛の手を差し伸べて来られたのに、あなたは気がつかなかったのです。
あなたはその手を握り返せばいいだけなのです。握ったならば、あなたは今日、癒され救われます。

 しかし、この事はあなたが全く別の人間になり、二度と罪を犯さないという意味ではありません。16世紀の宗教改革者ルターの言葉を借りれば、「罪人にして義人」となるのです。私たちの罪の性質が変わるわけではありません、しかし、あなたの魂がその信仰により神の前に義とみなされ、滅びゆく肉体を持ちながらも、その魂は永遠の滅びから救われています。また神の霊があなたの中に与えられるので、今後の人生を神ご自身が守り導かれる事になります。これがあなたの人生を外面ではなく、その根底を変える変化の理由です。あなたに神の守りと導きがありますように救い主の尊い名によって祈ります。アーメン。

(夜越山祈りの家キリスト教会 牧師)