同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 聖書信仰-19 —

「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテⅡ 3:14-17)

 聖書の教えによって、神のみこころや自分の実態が神の前にどのようなものであるのか、自分の行いもまた神の前にどのようなものであるか「知る」でしょう。それによって「戒め」られて、自らの行いを制限し、誤った道に踏み込んでいた場合や、誤ったものが身についているときにはそこから「矯正」されてその誤りを正すでしょう。更に重要なことは、「義の訓練」によって神のみこころに生きることが身につくことです。
 聖書信仰は、聖書が神の書であることを知っているだけでは足りません。救われるとは、イエスが救い主であることを知っているだけでは足りません。イエスは救い主だったと分かって喜んだだけでは足りません。私は、イエスに永遠のいのちについて質問し、イエスの指摘にそのようなことは幼い時から守っています、と答えた若い役人と同じように、イエスが救い主であることは幼い時から知っていましたが、神が実際に私のこころに触れてくださるまで、救われていなかったことも知っています。自分の信仰をよく観察、考察しましょう。
 聖書に記されている人物の義の訓練の事例をいくつか考察しましたが、義の訓練が身につくことがいかに難しいことであるかが示されていました。
 今回はペテロが「異邦人に対する偏見」を取り扱われた事例を考えましょう。
 旧約の時代、イスラエル人でない外国人が神の民に加わるには、ユダヤ教に改宗することが前提でした。イエスが世においでになり、キリスト教の時代が到来しましたが、はじめのうちは加わった異邦人はユダヤ教に改宗した人々だけでした。神は異邦人がユダヤ教に改宗することなくイエス・キリストの救いに与る道を開かれたのですが、それを伝える側の救われたユダヤ人にそれを理解させ、それを受け入れる訓練をなさらなければなりませんでした。それを最初に受けたのはペテロでした。
 神はまずユダヤ人の心に染みついている食物としての「汚れた生き物」と「聖い生き物」を通して教えられました。
 救いに与る異邦人の最初のひとは、コルネリオというローマの軍人、百人隊長でした。神はコルネリオに、ペテロを招いて教えを受けるようにと指示されました。
 それにあわせて、神はペテロにも備えをされました。
「その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。そして、声をかけて、ペテロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっているだろうかと尋ねていた。 ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。 さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」(使徒 10:11-20)
「そこでペテロは、その人たちのところへ降りて行って、こう言った。「あなたがたのたずねているペテロは、私です。どんなご用でおいでになったのですか。」すると彼らはこう言った。「百人隊長コルネリオという正しい人で、神を恐れかしこみ、ユダヤの全国民に評判の良い人が、あなたを自分の家にお招きして、あなたからお話を聞くように、聖なる御使いによって示されました。」それで、ペテロは、彼らを中に入れて泊まらせた。明くる日、ペテロは、立って彼らといっしょに出かけた。ヨッパの兄弟たちも数人同行した。その翌日、彼らはカイザリヤに着いた。コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、彼らを待っていた。」(使徒 10:21-24)  そこで待っていた人々はペテロのイエス・キリストとその救いに関する説教をききました。
「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。 彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。」(使徒 10:441-48)
 異邦人をそのまま教会に受け入れたことが知れると、早速非難が沸き起こってきましたが、彼は神に導かれたいきさつを語り、非難するひとびとを納得させました。
 次にアンテオケで異邦人がたくさん救われたので、パウロを信じて受け入れたバルナバが派遣されました。バルナバはパウロを探しにタルソに行き、パウロをアンテオケにつれてきました、彼らの働きでアンテオケの教会は拡大しました。
 その後聖霊に導かれて、バルナバとパウロは第一次伝道旅行に行きました。彼らがアンテオケに帰ってきたとき、異邦人の改宗者に割礼を受けさせ、モーセの律法を守ることを主張する人々と信仰上の争いになりました。それで彼らはエルサレムに行って、エルサレム教会の長老たちとこの問題を討議しました。そのとき、ペテロは、異邦人改宗者をユダヤ教の習慣と関わりなく、教会に受け入れることを、彼が導かれた最初の経験をもとに擁護したので、決着がつきました。

 ペテロはそのように良い働きをしたのですが、後になって揺らぎました。
「ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテヤ 2:11-16)
なんと、ペテロとバルナバまで割礼派に引き込まれてしまったのです。
 ひとたび受けた義の訓練が身について、長く失われないことが、どんなに難しいことであるかが示されています。
 ですから一層聖霊により頼んで、私たちの歩みを堅く守らなければなりません。