同労者

キリスト教—信徒の志す—

Q&Aルーム

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-132  —

山本 咲


列王記Ⅰ 2章

  この2章ではソロモンが王になった後、ダビデの時代から残っていた懸案の問題が処理されていったことが書かれている。しかし、それらのことすべてに神からの憐れみと赦しがあり、だからこそどのように神のそれを受け取り、畏れをもって頭を垂れて、悔い改めるのかという姿勢が求められてくるのだ。しかし、ここで違うところに焦点を当ててしまうと、ソロモンが専制君主のようにアドニヤをはじめとした多くの邪魔者を様々な理由をつけて排除していったものと誤ってとらえてしまう。しかし、実際はそうではない。
私たちは平和な時代に生きていることもあり、人間の「罪」の問題を曖昧にしてしまい、寛大に受け取りやすい。しかし、事実「罪」には刑罰が必要になり、神からの赦しはその人の悔い改めによって与えられる。だからこそ聖書が焦点を当てているのは、ソロモンの王国がどのように確立していったか、その背後に神がおられ、すべてのところを整えておられたということが語られている。今回のところで取り上げられた人物は全てイスラエルの王位継承問題にかかわった人物である。
シムイはダビデ王の時代に息子アブシャロムが謀反を起こした際に逃げていたダビデを呪った人物である。しかし、彼は遜ってダビデを迎えにヨルダン川に下ってきたゆえに、ダビデから「私は主にかけて『あなたを剣で殺さない』と言って彼に誓った」と書かれていた。同じように、その刑罰を遜りや、功績によって保留にされていた者たちがいた。ただ、王権はダビデからソロモンへと移り変わった。それゆえに彼らの罪をどのように問うていくかということもソロモンに委ねられた。もちろん、ソロモンが勝手にこの処罰を決めたのではない。すべてはその背後におられる神の判決であった。聖書はこれによって焦点を罪とあわれみ、悔い改めというところにあてようとしている。ヨアブ、シムイ、アドニヤ、エブヤタルこれらの人物が、このところで罪による裁き、その判決を受けた。しかし、先ほども述べたように彼らはすぐさまその裁きを受けたわけではない。憐れみによって執行猶予が与えられていた。本来なら、すぐさま裁かれ、その命を取られてもおかしくはないような状況の中に彼らはいた。ただ、彼らがその罪を悔い改め、神に立ち返り、遜って赦しを請うことを願い、神は憐れみのゆえに彼らをそのままにされていた。彼らが神に立ち返り、犯した罪を本当の意味で悔い改めたなら、彼らは恐れと共に自らの生き方を変えていたであろう。そうであれば、神は、彼らのその悔い改めに応えてくださった。事実、シムイはその悔い改めによってダビデの時代に裁かれることがなかった。そしてその後のソロモンの時代にも執行猶予が与えられていた。彼がその憐れみを理解し、感謝をもってすべてを見ておられる神を畏れていたならば、ソロモンとの約束を違えることもなかったのである。また、ヨアブはダビデと共にあって多くの神が行われる御業を見ていた。神のもとに立ち返れる瞬間は多くあった。しかし、彼は神を信じることなく、いつまでも自らの力に頼り、悔い改めることがなかった。それゆえに神がともにあるダビデを軽んじ、自らの判断でアドニヤについた。それが彼の死を引き起こすことになる。アドニヤは謀反を起こしたにもかかわらず、戦いの中で打たれることはなかった。そこに神の執行猶予がある。しかし、本来悔い改めて、罪に対する裁きを恐れなければならないときに自らの欲を優先してアビシャグを求めたのである。それは彼に付いたものたちをも軽んじる行為であった。この程度なら許されるかもという彼の思惑だったかもしれない。その行為は愚かでしかない。故に彼はその命をここで落とすことになったのだ。ここで唯一命を取られなかったエブヤタルは、その職を追われることで済んでいる。聖書には彼の罪やその悔い改めについて、詳しく語られていないゆえに、それを判断することはできないが、彼の犯した罪や、その後の赦しを私たちに考えさせる一つの出来事となるだろう。
これらのことすべてが、私たちにとって罪と悔い改めと赦しを考えさせる。私たちも同じように扱われることになる。私たちに与えられる執行猶予というものが神の憐れみの故であることを感謝と共に畏れていかなければならない。またイエス・キリストの十字架による罪への赦し、父なる神の忍耐があって私たちは罪を見逃されるのである。神の忍耐がなければ、私たちはすぐにでも死するものとなっていただろう。礼拝でも以前語ったようにイエス・キリストの十字架上での死による贖いを与えてくださることで私たちの悔い改めを担保してくださるのだ。しかし、このところで書かれているように、彼らは神を侮っていた。それゆえに憐れみの中に命を保っていたのにも関わらず、その命を失うものとなってしまった。
今日開いた2章の最初のところでソロモンはダビデから王位を継承された。イスラエルの王位に含まれていることは「神を信じる信仰」と「神を畏れて生きること」そして「この王国は神の王国であり、神に仕えるイスラエルの民としてその先頭を切ること」である。ダビデは先月語ったように継承がどのように行われるのかを知らず神に求めていた。その中で神がダビデの死をもって王位を譲るのではなく、その直前に直接ダビデから継承し、ソロモンへ譲ることとなった。そしてこの2章のやり取りがある。ダビデはソロモンに対して王位に含まれるものすべてを継承するとともに、遺言のように彼がなさなければならに事を告げることとなった。それによってこの2章後半のことが行われるようになる。それは不思議とソロモンの王位を確立していく上で重要なこととなっていく。神がすべてを動かされているのだ。私たちの営みというものはこのような形で物事が動いていく。ただ最も大切なことは変わらない。ダビデがその一生を神に仕えたように、神を信じる信仰を持ってその勤めと生涯を全うしていくことである。そして、その先に遺言ではないが、自らがどのように生きたかを次の者に継承していくこと、そして伝えられた側もそれを捉えることができることをもって信仰者の生涯が神によって嘉納され、受け入れられていくということが起こってくるのである。
ソロモン王位の確立のために邪魔ものを排除しているように見えるが、実際は神がことを成すためにダビデによってその信仰を継承されたソロモンを用いておられる。ダビデは失敗が多くあった人物である。サムエル記ははばからないでダビデの弱さや過ちを取り上げている。しかし、それ以上にダビデがそのような中であっても神を畏れ共に生きた事実を述べているのである。だからこそ、主を畏れ、主と共に生きることを選び通し、生き続けた信仰者が継承をもってその最後を締めくくっていけるのである。
新約聖書はイエス・キリストの贖いと憐れみというものが書いてあり、その中に神の救いの事実を見ることができる。対して旧約聖書は私たちが信仰者としてどう生きなければならないかを見せてくださる。信仰者にはイエス・キリストの贖いも憐れみもあるが、それが得られたからと言って一遍に整って何もかも順調に生きていけるかというとそうではない。憐れみと弱さの中でもう一度悔い改めて神と共に恐れ畏み、生きるうえで救いが全うされていくのである。それを捉えさせていただくことができるのが旧約聖書なのである。御心に忠実に生きるということは主が私たちを憐れんでくださった真実に対する応答である。私たちは聖霊に導かれ、神の御心に忠実に歩み続けていきたく願う。そのように生きるときに、憐れみはなお私たちと共にあってくださるのである。しかし、救われた事実だけをもって神の真実に応答しようともせずに生きるならば私たちに与えられた執行猶予と憐れみを侮って生きてしまうのである。新約の時代でも憐れみを感謝しつつ、なお畏れをもって信仰を全うさせていただきたく願う。


Q:今日、仕事の現場先で作業中に物を壊してしまったのですが、私はそのようなことに囚われやすく、家庭に帰ってからも会話は耳に入らず、今この集会の瞬間でもそのことが心を占めていて、自分が物事を引きずりやすいということを感じています。良くないとは思うのですがどのようにしたらよいでしょうか。

A:私は自分が何に落ち込んでいるのかを問う。例えば「上司に注意された自分」に落ち込んでいるのか、「周りの評価が下がったこと」に落ち込んでいるのかなどである。そしてその後「それを家庭にまで持ち込むほどの価値があるのか」と問う。結局のところ、自分という人間の価値が損なわれたことに対して落ち込んでいるのが大きな理由である場合が多い。評価されようと願ってここまで頑張ってきたのにそれをぶち壊してしまった。評価を損なってしまったと落ち込んでいるのである。しかし、それによって家族との良好な家庭の雰囲気を損なってしまうのはもったいない。私は落ち込みという形で家庭に持ち込んで、雰囲気を損なうよりも、逆にそれを話題にして「こんな失敗しちゃたんだよ。慰めて」と言って誰かにそれを分かち合ってもらったりして発散する。それらを利用して解消していくようにしている。あなたも落ち込んだ理由を探っていくとともに、どのようにしてそれを解消していくのかを考えていく必要がある。一晩寝れば解消できるなら寝ればいい。とはいえ、今日のように集会前にそのようなことをして、この集会に身が入らないことは、あなたにとってもったいないと感じるならば、それはあなたが犯したミスに対する対価であるのだから、今回はしょうがないと受けていかなければならない。そして、今後そのようにならないためにと対策を打っていくことが必要になるだろう。給料に反映されるわけでもないし、ボーナスに関わるものでもないとするならばそんなに頻度も多くないと考えられる。であるならば、落ち込みを引きずってさらに周りを巻き込んでしまい必要以上に対価を払ってしまうということはいよいよ貧しくなってしまう。ミスに対する謝罪が行われ、注意の言葉を受けたのであれば、それであなたが払うべき対価は払われている。しかし、それ以上にあなたが落ち込んだゆえに起こってくる周りへの八つ当たりや、悪い雰囲気を出したことで問題が生じるならば、それは対価を必要以上に払いすぎているといえるだろう。それは大変もったいないことである。だからこそストレスフリーにしていかなければならない。今日引きずらないのは家族の為であり、明日引きずらないのは仕事の同僚のためである。余計なものを残さないよう、解消していかなければならない。
 このようなことは日常の中に起こってくるよくある問題だろう。あなたはきちんとその相手への謝罪と相手からの注意の言葉を受けることによって行ったことへの対価を払った。だからそれでよい。それが遜ることだからである。しかし、一面気を付けていかなければならないのは、遜らずに、「なんだこんなことで」と自分の失敗を棚上げすることである。それは相手と自分の価値観が一致していないときに起こりやすい。自分にとってその失敗は「こんなこと」かもしれない。しかし、相手にとってその失敗は「重大なこと」である場合もある。よく気を付けてともに過ごす者たちと価値観を共有させていかなければならない。そうでないと、相手の大切にしている事柄を簡単に蔑ろにしてしまい、その故に関係が成り立たないことが起こってくるからである。仕事ということはそのようなことが多く渦巻いている。だからこそ、やってしまったと落ち込むのならば、良く反省し、以後起こらないように注意するとともに、それを取り返せるように働いていくと良い。それを相手が知らなくても、あなたがそのようにして返していくことが重要なのである。
また家庭内でも同じである。父親が家長として子どもにそのようなことを迫るのだ。家族の価値観を共有させ、それを守っていくことや、守れなかったときにどのように対処するかによって子どもが社会を生きるスキルとしてそれを培っていけるし、それによって家庭内、両親の価値観ということを教えていけるとても大切な現場なのである。
なお、自らを振り返りながら、落ち込みすぎ、多く支払うというもったいないことをしないように、逆に明日からの働きで活かせるように取り組んでいっていただきたい。


Q:キリストの奇跡に直面した人の中でその事実を広めなさいと言われた人と、誰にも言わないようにしなさいと言われた人がいますが、その違いは何でしょうか。

A:全体的に福音書の中では知らせないようにしなさいと言われている。それはイエス・キリストご自身は奇跡によって誰かを救おうと願っていたわけではないからである。聖言と神を信じる信仰によって救おうとされたのである。ただ、誰かの救いに対する信仰による求めに応える形で奇跡が行われることがある。だからこそ、福音書の中にはイエス・キリストが行われた奇跡は多くあったが記していないとまで書いているくらい、それ自体は重要ではないのである。しかし、奇跡の方に人間の気持ちは行きやすく、それがその信仰を支えるものになってしまう場合がある。ただそれは誤りである。だからこそ、イエス・キリストは貴方だけのものにしておきなさいと言われるのである。それでもイエス・キリストのもとに人々が集まったのは、言っても言わなくてもその事実が何らかの形で露見したからかもしれない。目の見えなかった人が見えるようになった事実は、周りの人から見れば何を言わなくてもわかることだからである。しかし、何度も言うようだが、イエス・キリストは奇跡によって注目されることではなく、イエス・キリストが罪赦す方としてこられたことを信じ、その信仰によって従うことを求めておられたのである。
多分に奇跡は人を分けたと思う。回復を与えられ、人生が変えられたということで終わった人と、イエス・キリストという人物を追い続け、その先に十字架や復活を見続けた人とがいただろう。きっとそのような人を分けたのは、関心を「良くなっている現実」に向けたか、「見なければならなかったもの」に向けたかである。良くなっていく現実に関心が向いてしまった人たちは本当に必要なことを見逃してしまうことがある。これは私たちも同じである。私たちの変えられた人生や、周りの人の対応、良くなっていく日々にばかり目が行くとイエス・キリストから心が離れてしまうのである。関心は本人にもわからないままに過ぎていくものである。はっとしたとき見なければならないものから目が離れていた事実が分かるのである。
どこに目を付け、捉えて生き続けていくか。救われることも同じである。様々なものが変わっていくということが起こってくる。その中でご利益という方に目が向きやすくなってしまうことも恐れていかなければならない。そうなってしまえば、それと感じることが無くなったときに、信仰そのものが危うくなってしまうのである。
私たちの願いもそのようなことが多い。私たちに与えられた第二教会も、最初は別の場所でもっと大きな物件を考えていた。しかし、その道は開かれなかった。そこでこんなことをしたらというビジョンも私たちの中に多くあった。ただ、それは神によって許されなかったのだ。このできごとによって私たちのなかには揺さぶられた人もいただろう。しかし、神が本当に導こうとしていた道はここにあったというものが、その先を歩むことで見えてきた。そして実際、今、一本杉という地で物事が進められている。神の事業でその御旨で、その価値観で物事が行われている。しかし、神の価値観に一致していくことができなければ、その神の事業を共に全うしていくことができないのである。あなたにもいずれ伴侶者が与えられるだろう。その時にはお互いに語り合いながらその価値観を共有しあい、一致していってもらいたい。


Q:先日初めて分科会で三浦綾子読書会に参加させていただきました。その集会のなかで参加されている求道者の方々と関わる中でその方たちの多くが死について恐れを抱いていることを感じさせられました。

A:私もそのような方々にどうにか福音を届けたい。老牧師はジムで関わる人たちによく福音を語っていたが、彼らのそのような叫びが聞こえたのだと私は考える。私も福音に近い人たち世の中で言う「終活」を行っているような人たちと関わる中で、どのように関わっていくか、生きている間にあなたの心を安くして最後を神と共に迎えていただきたいと伝えていくか、その福音のチャンスを見出していくことが重要だと考えている。そのようなことを考えている人たちは自らの人生をそのように歩んできている。知識も実績もある人たちが多い。逆に私たちが勝手にこの時までにとかゴールを決めて、そこに押し込むようなものではなく、その人に寄り添いながら様々なものを通して、神が触ってくださることを信じてゆっくりでも真実に生きていることを表し続けていくことが福音の働きとなるのである。老牧師は不安になったら福音の働きをしなさいと語っていたように、私たちがそのように隣人となるために生きていると、私たちに対する特別な恵みが与えられるのである。相手は本当に手強い。人生をここまで生き抜いて、知恵も実績もある。先日、老牧師が伝道していた70歳ほどの方とジムでお話をした際に彼は手が痛いと言っていた。その理由がスキーでストックの持ち方を指摘され、直そうと取り組んでいるからというのだ。その方はスキーがうまく、フォームもきれいだ。にもかかわらず、そこで終わらずに、更に良くしようと取り組んでいるのだという。このような人々を手強いといわず何と言えるだろうか。正しいことに添わせようとしていると考えるなら、この人にイエス・キリストの救いと神の話は届くのではと思う一方で、世の中でその年になっても様々なことに取り組み続けている彼の意欲と、行動力に人生への満足感を見せられ、手強いと思わざるを得ない。ただそのような人たちに寄り添い続けることが福音につながると信じ、歩むことが必要なのである。先日も語ったがある兄弟はジムで新しい教会の名前が入ったペンとホームページにつながるQRコードの入った名刺サイズのチラシを配っていた。実際そのペンはジムに来ている人たちには邪魔になってしまうものである。これから運動しようという服だから入れるところがない。ポケットなどに入れれば動きの邪魔になる。しかし、彼らはその兄弟からペンとチラシを受け取ることを喜んでいる。なぜなら、その兄弟が自分たちを伝道の範囲に入れていることを実感できるからだ。そのような対象として見られていることを喜んでいるのである。私たちもなお、世の人々に関わり、寄り添い続けていきたく願う。


Q:世の中の成功者の話をされていましたが、そのような人たちの話を本で読んでいて、彼らはクリスチャンではないのですが、クリスチャンで言う「天に宝を積む」ような行動をとっていることを感じました。彼らは世のため人のために働いていますが私たちは信仰をもって一つ一つの物事を成しています。今日の話を聞いていて、このことも考えさせられました。

A:世は神の秩序で動いている。成功している人たちは神の秩序にマッチしたから成功するのである。神を知っていても知らなくても、その秩序は存在し、それを踏まえていれば同じようにそこに成功が与えられる。ただ私たちが大切にしているのは成功するということではなく、聖言に書かれていることに自らを添わせて生きているかということである。自分が生きた事実に聖言を合わせようとしている人は後付けであり、そういう人は本当の意味で聖言に生きていないから神の秩序にも則っていないし自分のわがままから抜け出せていない。残念ながら、そこに成功はない。私たちが大切にしているのは信じる聖言をもって生涯をその上に生かしていこうとすることである。しかし、一方でそんなことではどうしようもないということも起こってくる。しかし、譲らないで私たちはそう信じたんだと行っていくことができるか。もっと深くなるとそれでもままならない、どうしようもないということも出てくる。その時にどのようにして形を変えていくのか。神への信仰や聖言を持ち続けながらどのように発展させて事を行っていくのかが私たちが生きていく上で重要なのである。なぜこのようにしたかということを誰かに尋ねられた時に、なぜなら聖言にこう書いてあると語っていけることは幸いである。それが特に信仰の継承では重要である。「お父さんは何でこの時にこんな決断をしたの」と子どもが聞いてきたときに「この聖言を信じてこの選択をしたんだ」と結び付け証できなければならない。しかし、後付けしている人たちは聖言とマッチさせているのではなく、あとから急に物事を結び付け処理しているから、そこには本当の信仰の実践も感謝も生まれてこない。信じて歩んだ者たちは神からの答えに心からの感謝が与えられる。
見せかけの信仰者が信仰を持ち続けていけないのは、この世との戦いを勝ち抜いていけないからである。信仰者は世と自らの歩みをきちんと分けていなければならない。しかし時には世に譲らなければならないという時が来る。ただそれも譲り方がある。それを無視して頑なに譲らずにいることも、譲ってばかりでも成り立っていかないのだ。その時に重要なのが牧会者という存在である。「私はどうしても譲らなければならないのです。どうぞ、保証人になってください」と牧師に語ることが必要である。そこまで言わなければならないほど、真剣にその問題に立ち向かおうとするとき、私は牧師として「神にそのことを共に祈って願いましょう」とその問題に一緒になって取り組むことができる。そうすることによってその結果や、神がなされた恵みを共に喜び分かち合うことができる。それだけでなく共に涙しながら御手が動くことを静かに待ち続けなければならない時もある。それは後付けの無い確かな神との契約であり、神に委ねられた信仰者の生涯である。ダビデは日々戦いの中でそれを生き抜き、正しい形で信仰の継承がダビデからソロモンへとなされたのである。 この教会も日々の歩みを大切にし、神が与えてくださった信仰を継承し続けていきたい。 

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)