論説
— 信仰の戦いを勇敢に戦う —
「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」
(テモテ第二の手紙 6:12)
そのために必要なひとつのことは、自分の心をみつめて「動機」を自分で判断することであると言えるでしょう。それに慣れてくると、周囲の人々の動機をも察知できることが多くなります。
子供がこうしたいと言うときのその言い分、理由付けには、動機とは違っていることが多々あります。若い信徒の身の振り方、学校を選ぶ時、遠い土地のものを選ぶときには、教会や親元を離れたいのが動機である場合があります。就職するときに、そのようなことは全く考えず、この世の普通の流れに従っていくこともあります。それは、とどのつまり神第一ではなく、この世の富、栄誉、等々を求めていることになってしまうのです。
ですからこうしたい、というとき正当な理由を並べるに違いありませんが、その表面の理由が真の動機であるか、心の内に隠れた他の動機があって、その動機を果たすために理由付けをしているのか、見極めることが大切です。なぜなら、教会を離れ、親元を離れることは、神から離れることに直結していることが多いからです。
どこそこに行ったら、この教会に行くと決めても、動機が不純である場合、それを保つことができないことが多く、またそれを神が放置され、信仰を失うことが多いのです。子供の進路を誤らせないこと、それが信仰の戦いの戦い処なのです
牧師は、信徒の移動について、その動機 を考える必要があります。この世のものを求めているかも知れませんし、本当は戦わな ければならない戦いを放棄して、この世の力に従っているかも知れません。その羊が、安全な柵の外に出て行くのを放置せず、断固、柵の中にとどまるようにしなければならないことでしょう。
そしてその結果は想像がつきます。「先生は自分の教会の利益のために、あるいは自分の利益のために、あの人を行かせなかった」、という誹謗が起こるに違いないのです。しかし、その人の信仰を考えたなら、その誹謗は甘んじて受けなければならないことになります。他人の誹謗を恐れて、大切な信者の信仰が失われてよいものでしょうか。
私たちはその時、先生方の擁護者であらなければなりません。同労者は、教会の荷を先生方と共に担う人なのですから、誹謗も一緒に受けて当然なのです。