同労者

キリスト教—信徒の志す—

人物伝

- 山本岩次郎牧師の思い出(5) -

秋山 光雄

第1部  私の見聞きした思い出集(つづき)

山本岩次郎牧師に関わるエピソード(つづき)
▲厳然たる礼拝

 礼拝は威厳と粛然たる空気に包まれるものだった。下町の労働者ぞろいの教会である。手足を真っ黒にして汗を流して夜遅くまで働くのには慣れていても、いわゆるエリートやネクタイとは無縁な人たちの集まりでありながら、礼拝の時は可能な限り背広ネクタイ姿で定刻にはきちんと座るよう訓練され遅刻ははばかられる空気があった。1時間を越す説教は正に神聖な戦場だったのだろう。騒ぐ子供がいると母親は、そっと連れ出し騒ぎが収まってから戻ってくる習慣が付いていた。牧師がそうなら、教会全体も厳粛さが身に付くようになる。

▲漫談的伝道会

 日曜日の伝道会は打って変わってリラックスした漫談的の面白さがあった。牧師はスーツ姿だったが信徒は普段着のままだった。駅前の路傍伝道は毎回行われた。ブラスバンドやタンバリン、それに万灯(まんどう)と称する大型広告灯を掲げマイクを使って司会する者、チラシを配る者など10数人が参加した。路傍を引き上げて教会の屋内の伝道会は司会者、証し人、そして牧師の説教と続くのだがジェスチャーを交えた庶民的な説教はリラックスと笑いに満ちた楽しいものだった。

▲祈り中心の祈祷会

 岩次郎はよく、自分が育てた若い牧師たちに言ったものだった。「君たちの集会は、名前が変わるだけで中身はどれも同じだ。礼拝も伝道会も祈祷会も同じスタイル、同じ空気、同じ進め方・・・。これでは興味をもって集まる人がいなくなる。どれも同じだから。」と。確かにそうであり岩次郎の祈祷会は、短い説教の後は証、それの解説と指導、そして祷告とつづく。来て良かった、証ができて良かった。自分に関心を寄せてもらって良かった、など集まる喜びが感じられる祈祷会だった。とにかく3集会は、それぞれ趣を異にしていたのである。一般の教会は礼拝には人数が集まっても祈祷会や伝道会はごく少数になるのが常識とされる。しかし教会の真の実力は祈祷会の如何(いかん)にあると言われる。荒川教会では礼拝、伝道会、祈祷会のいわゆる3集会の人数はあまり変わらないのであった。もちろん夜の伝道会、祈祷会は遠距離のため高齢などの理由で礼拝より少し落ちるが、それでも一般に比べるとバランスの取れた集会であることが分かる。ちなみに当時の週報によると、
1951年(開拓3年目)の統計では
    礼拝46名;伝道会35名;
    祈祷会28名
1955年(開拓7年目)の統計では
    礼拝63名;伝道会48名;
    祈祷会40名
1965年(開拓17年目)の統計では
    礼拝157名;伝道会112名;
    祈祷会104名
と記録されている。

▲無邪気な説教者

 まじめな牧師の多い中で無邪気さは岩次郎の独壇場であった。教会学校全国教師会のおりだった。ザーカイの歌と踊りが紹介されたとき、指名されニコニコ顔でジェスチャーたっぷりで壇上で踊ったのはもちろん岩次郎であり、それは他の誰にもまねのできない姿だった。無邪気、庶民性といえば町の銭湯でも、見知らぬ人に、「やあ、どうだい大将、いい体してるねえ。何貫あるんや?」などと気軽に声をかける牧師だった。

▲きぜんとした牧師

 息子のNが留学中、女性関係で問題があったときのこと、初めてアメリカに飛んだ岩次郎は帰国後、「いっそのこと、自動車にひかれて死んでくれた方が良かった」と絶句した。他人の何人かがそのところにいたため慌てた夫人が、「そんなことを言ってはいけません!」と強くたしなめたのである。その現場に私もいて、それを耳で聞いた。そこにも我が子なりとも罪より死をという厳しい態度で臨んだ岩次郎の姿が見てとれる。

▲信仰を失った信徒に祈る

 私の名古屋教会赴任中であった。1951年の名古屋開戦のおり大きな役割を果たしてくれた信徒Iがあった。あれから16年も経っており今は消息すら分からない兄弟である。岩次郎は昔を忘れず彼を訪ねようとわずかな記憶を頼りに彼の家を探し当てた。そして、つかつかと入って行くなり、いきなり握手して、「やあ。しばらく!どうだい元気かね。覚えているかね山本牧師だよ」と声をかけ、驚きまごつく彼の手を握ってお祈りを始めたのである。その帰路私は、「遠ざかっていて、今どんな考えでいるかも分からない人に、良くお祈りができますね。私なんかとても」と言ったら、「これは年寄りの仕事だよ」と、あっさり笑って言われたのだった。

▲信徒に気配りする牧師

 ある役員は喫煙愛好家だった。当時、信者は酒やたばこをやらないのが常識であった。
 牧師がその家を訪ねるとき、必ず戸をノックし大きな声で、「こんにちは。おりますか?」と声をかけ、応答があると、「山本ですが」と言ってから、わざとせき払いをしてゆっくり戸を開けるのだった。その所作を、「彼がたばこを消し煙が散るのを待つためだよ」と説明してくれたことがある。

▲多彩な趣味

 岩次郎は多彩な趣味の持ち主だった。絵は専門家から画家にならないかと勧められるほどだったし、書も見事な腕を持ち、聖会や大会などの墨書聖句は岩次郎が専門だった。その他にも大工仕事はお手のものだし、篆刻(てんこく)も道具一式を備えてたしなんでいた。センスの良い身だしなみはかっぷくの良さと相まってゼントルマンの気風が漂っていた。

▲向学心旺盛な牧師

 いつごろだったか、どのくらいだったか学びのために慶応大学の聴講生として通ったことがある。岩次郎の息子のNも慶応の学生だった。年配の岩次郎に学生たちは大学の教授だと思ったらしいとはNの言葉だった。

▲説教に備える牧師

 教団の大事な当務の時や他団体に招かれて説教をするときは、必ずといっていいほど静かな宿に出かけて備えるのだった。お金と時間を割いてまで説教に向かう真剣な態度を失わず、説教という務めを重視したのである。

▲寸鉄の言葉

 岩次郎牧師は短い言葉で千金の重みのある寸言の言葉の人だった。例えば、「可能性のあるところには誘惑はある」、「すべて良かったと言う人は何も良くなかったというのと同じだ」、「沈香(じんこう)もたかず屁(へ)もひらず」など。これも聖書のみか世事にも通じている証であったと思う。

▲弱さを見せる牧師

 会堂建築の真っ最中のこと。集金に来た人があった。「先生はいるかね。今日はどうしてもお金を払ってもらわにゃ。」その声に岩次郎は押入の中に隠れた。そんな場合、応対に出るのは決まって夫人だった。その時も、「ちょっと主人は出ています」と言って借金取りに応対したのであった。こんな点の弱さは分かるが押入に隠れて居留守を使った気弱さが岩次郎の一面にあったのだ。

▲心に残る忠告

* 1952年6月29日、私は献身者として池袋の寮からわずかな荷物を抱えて荒川教会に引っ越し、牧師宅の一員となった。引っ越して間もないころだった。洗濯をしていたら岩次郎牧師が、「何だ、そんな洗い方があるか。もったいない!」と頭の上から厳しい声が飛んできた。指摘されたのは洗濯板の上に洗い物を置いて石けんをつけ、少しゴシゴシこすったあと直ぐにタライの中の水に付け、もみ洗いをしたのだった。「すぐに水洗いをしたらせっけんがもったいないんだよ。もっとしっかり洗濯板の上でこすってから洗い流すんだ。」

* ある夕食のときだった。「もったいない!何だ、その食べ方は!」魚の骨、特に頭の部分の苦手な私を岩次郎牧師の目から見れば、食べ方の下手なやつと思ったのであろう。居候の身分、まして貧しい時代のこと私はすっかり恐縮してしまった。それ以来魚が出てくると食べるのにプレッシャーを感じたものである。(現在でも魚の食べ方は上手ではない)。元来が不器用な私、それに田舎では魚など口に入れたことのない私にとって岩次郎牧師宅での食事には万事、緊張を覚えたものである。独身の寮生活では好きなように食べていた食べ盛りの私には、「居候三杯目には、そっと出し」の川柳を実感する生活だった。当時勤めていた給料は全額手付かずに教会に渡していたのだから遠慮する必要はなかったかもしれないが、そこは気の弱い私のこと。そんな気持ちになることなど思いもよらぬことであった。

* 夕食後、一家だんらんをよそに、「訪問にいってきます」と言って座を立つのが私の習慣だった。臆病な私は求道者の住まいや職場を訪問することが苦手であった。荒川の三河島近辺は労働者の町であり人々は夜遅くまで仕事をしている。そんな所へ訪問に出掛るのには躊躇があった。親方には、「何でこんな忙しい時間に邪魔立てするのか!」と怒鳴られたこともある。求道者から、「親方に内緒だから来てもらっては困るよ。もう来ないでくれ」と言われたこともある。とにかく初めての求道・来会者を訪問するのは気後れがしたものだ。
 土曜日には礼拝当務者宅に案内の週報を配るのは何の心配もない、のみか楽しみですらあった。ねぎらいの言葉、時には茶菓をいただくこともある。しかし、その足でさらに訪問しなければならない新人、求道者の訪問は憂鬱になったものだ。福音を伝える喜びより先方の気持ちを先取りして足が重くなってしまうのである。これは福音体験が希薄だったからなのか。
 岩次郎牧師によく言われたのは、「君の仕事は訪問することだ。特に好きな人でなく苦手な人、行きたくない人の所を訪ねよ」と。正に真理とは思っても心重い忠告であった。

* 訪問といえば、献身以前のことを思い出す。先輩の兄弟Hの後についてチラシ配布の戸別訪問をしたことがある。彼とは勤め先も同じで信仰的にも年齢的にも大先輩だった。彼の後ろに隠れるように歩いたのだが、今にして思えば彼も一人では気後れしたのではなかったのか、それで私を誘ったのではなかったのか。信仰厚く熱心と言われるプライドにかけて、教会内だけの熱心だけでなく皆が尻込みする戸別訪問を買って出たのではないだろうか、と要らぬ憶測をしてしまう。

 (以下次号)

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