同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

主のみこころを聞く心・・・そして意欲

石井 和幸

「ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて、『行きたくありません。』と言ったが、あとから 悪かったと思って出かけて行った。ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」 (マタイ21:28-31)

 私の娘は1歳5ヶ月になろうとしてますが、親の言っていることがわかる場面が増えてきています。親である私も、(まさかこんなこと1歳児に話しかけても分かるわけがない)と決めつけずに、あえて娘に話しかけるシーンが増えました。 「お風呂入ろうか?」 「もうおしまいにしなさい」「それ、貸してくれる?」等、親が話しかけると、拒否したい時は「いや、いや」と言って首を横に振ります。 また、夕飯が終わって、親に促されて「ごちそうさま」のあいさつ(今は首を縦にふるだけですが)が終わると、決まって父親に抱っこをせがみます。テーブルの高さまで目線があがると、あるオモチャと道具を交互に持って、父親にリアクションをするようにねだるのです。 それがもう日課になりつつあるので、私は最近、「キミの思い通りにはいかないよ」と言っていじわるをする時があります。怒って泣き出した場合は「なぜ、あなたが怒るのか?」と叱ります。 そうしないと、自分の世界、自分流から少しでも外れると、「いや、いや」と言って協調しなくなってしまうからです。
 さて、そんな私も実は、自分の世界、自分流からなかなか抜け出せない性質をもっています。以前、勤めていた会社では、自分の担当する顧客、仕事に対しては尽くすが、上司や同僚から廻ってきた仕事に取り組む姿勢は、全くの「頼まれ仕事」で、意欲が目に見えて違うものでした。上司からは「そんなことではお客さんがつかないぞ」と再三注意され、同僚からは「(使い分けがはっきりしていて)わかりやすい人」と言われたりもしました。 今の会社では、基本的に私をいつも注意するような立場の人はいません。そうすると、気をつけていないといつのまにか、不得手な仕事が後回しになってしまいます。 けれども、私に科せられた任務は、自分の好みで仕事を現場に廻すのではなく、顧客と会社のニーズを察知して、現場(工場)の人が仕事をしやすいように、また士気が保たれるようにすることなのです。
 先日、ある顧客から、「予定していた工事日を一日早めてほしい」という依頼がありました。私は、その依頼を断らなければなりませんでした。即、電話を掛けてストレートに断っても良かったのですが、顧客であるKさんは、クセのある人なので、まず、気分を害することなく聞く耳を持ってもらうよう、工夫が必要でした。結局、私はKさんにこう話しました。「工事日が早められるように、検討と手配をしましたが、どうしても材料がそろいません。その気になれば、(工場に)ある材料で夜中までかかっても準備することはできます。そもそも、Kさんが工事日を早めたいのは、確か電気工事屋さんがもう現場にいるからなんでしょ?」 そうするとKさんは、「やっぱり材料がそろわないか(苦笑) 実は、現場の状況は君の言う通りなんだ。だから、私だけ先に現場に行くので、石井さんは予定どおりお願いします。」と答えてくれました。 このような言葉の使い方や手法は、私が前の職場で教えられたものですが、何よりもKさんが、私の気遣いに対し反応し、そして事情を理解してくれたことに、私はホッと一息、胸をなでおろしました。

最近、私はある教会で、会計の奉仕をしている方と話す機会が与えられました。教会の構成と財政・・・一生懸命献げている信徒、それは教会を支えてきた長老、もう直接教会活動にはあまり関われないのでは?と思われるお年寄り。そして、学生時代に救われた、社会人3年目あたりまでの若者。では、その間の世代は?礼拝を守るのがやっとの人もいたり、いつのまにか献げることよりも自分のために経済を費やすことに価値を高く値積もる信徒。けれども、役員として、また教会として、ただ献金増額をアピールすることが根本的対策にはならないことを話し合いました。やはり、主のみことばによって、語られるメッセージによって養われ、信仰によって価値を見いだすことが必要なのです。それは、みことばを聞く者のへりくだった姿勢と意欲。そして私がKさんに対し、工夫をしたように、伝える側の姿勢、意欲も問われてきます。1歳半にも満たない私の娘でさえ、もう自分の世界、自己流を貫こうとします。ましてや大人である自分はいつのまにか、神のみことばをないがしろにして自分の世界に走りだしてしまうことを警戒しなければなりません。私はときに、娘を真剣に、胸ぐらを掴むような勢いで叱ります。それは、自己中心ではなく、神のみことばを聞く心をもつ、神と人の前に真実を尽くす人になることを願うからです。親である自分が、そのような者でありたいと取り組んでおります。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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