同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 救いについて —

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。・・・あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──・・・あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ 2:1-9)

 受難節に入りました。いつものように、キリスト教の暦にあわせて、私たちのためのイエスの十字架の贖いについて考察することは、私たちの信仰の益となることでしょう。「救い」ということばは、キリスト教の看板として掲げられています。信者でない人々でも、キリストというと「救い」ということばを連想します。
 この救いについて、アルミニアンの人々とカルビン主義の人々の間で議論がなされてきたことはご承知の通りです。両者はもっとも近いと思われる間柄であるにもかかわらず、ひとたび議論をはじめるともっとも白熱してしまいます。もう300年以上も議論がなされてきました。無益な議論はやめ、それぞれ「私はこう信じている」と自分の信仰の道を進むのがよいでしょう。
 「救い」ということに関して言うならば、両者はほとんど変わらないことを信じていることは間違いありません。両者とも、冒頭のみことばの書き出しのとおり「人は全的に堕落している」と信じています。それは、人が救われるのは「まず神の恵みがあって」のことであって、それなしに人は救われないことを意味しています。ですからカルビン主義者は「神の一方的な憐れみによって」ということばを好んで用いますが、アルミニアンの人々もそれに同意していることを意味しています。そして両者とも「行いによるのではなく、キリストの贖いによって救われる」と信じています。
 ですから救いの「発端」と、救われましたという「結果」についてのみ言うならば、両者の信仰に何の違いもありません。
 アルミニアンはその間の「過程」について考察を付け加えます。神はまず人が認罪つまり自分が救いを要する罪人であることを自覚し、十字架の贖いが自分のためであることを悟ることができ、信じることができる「心の機能」を回復される。その回復された心の機能を用いて人は自ら十字架の贖いを信じて救われると考えるのです。
 自分はアルミニアンであると思っていても、「先行恩寵」ということばだけ教えられていて、このことを考察していない人も多いことでしょう。ですからこの時期に、もう一度自らに与えられた救いの内容を、深く考えるとよいことでしょう。

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