同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第51回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

2. 旧約における三つの職務の考察(つづき)
2.3 王(つづき)

 ネヘミヤの働きを整理し、箇条書きにすると以下のようになります。
1)城壁を再建し、敵対する人々が城の中を自由に荒らすことがないように守った。
 城壁の再建の働きに、人々を鼓舞し、その結果人々は善い業を行ったのであった。
2)民すなわち自分たちの間の問題を調停し、殊に貧しい人々に愛をもって対応するようにさせた。
3)人々に律法(聖書)を教える宗教教育をした。
4)安息日を守ることすなわち神を礼拝することを徹底させた。
5)神の礼拝に仕える祭司、レビ人たちの生活が成り立つように、献金がゆきとどくようにした。
6)律法に反して周囲の外国人と婚姻関係を結んでいた人々を、その違反から回復させ、以後違反がないよう徹底させた。
 ネヘミヤをそのような行動に駆り立てたものは、何であったでしょうか。
ネヘミヤ自身がこのように記しています。
「ハカルヤの子ネヘミヤのことば。
 第二十年のキスレウの月に、私がシュシャンの城にいたとき、私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。すると、彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」
  私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、・・・」(ネヘミヤ記 1:1-4)
 ここに彼の同胞に対する愛と神に対する信仰が顕されています。私たちは、誰かの不幸を聞いて、喪に服すでしょうか。断食して泣くでしょうか。ネヘミヤにとって、同胞は、そのように近い「隣人」でありました。それ故、神ご自身が、この働きをネヘミヤの使命とされたのです。そして、彼はエルサレムとその周辺のユダヤ人に対して、神によって「王」の働きをなすように導かれました。
 私たちにも、神が私たちにお委ねになった人々がいます。牧師にとっては、教会の会員である信者です。家庭にあっては、父親にはその家の人々が委ねられています。
 私たちは、神に委ねられたこれらの人々に対して、王であることを求められています。教会の中、家庭の中に「この世」が侵入してくることを防がなければなりません。サタンは巧妙です。この世が侵入してくる糸口は様々です。仕事や収入、つまり経済の問題があるでしょう。結婚の問題があるでしょう。それについて世を挙げて愛だ愛だと叫んでいますが、それは神の前に持ち出されなければなりません。学問やこの世の様々な誉れ、権力、楽しみがあります。いつの間にか教会よりも学校を重んじていないでしょうか。教会よりも仕事を重んじていないでしょうか。自分の息子、娘の配偶者を選ぶのに、信仰を基準とせず、学歴で選んでいないでしょうか。あるいは、どんな仕事をしているかとか、お金があるとかないとかで選んでいないでしょうか。
 王である者が、まず正しい価値観、神が嘉納される価値観をもって判断し、その判断の中に委ねられた人々を守らなければなりません。放っておいたなら、委ねられていた者たちが、この世の原理で仕事をし、自らの好むこの世の人物を配偶に選び、この世の楽しみを宝として生きていってしまいます。そこにネヘミヤが戦ったのと同様の戦いがあります。私は恵みを語るから、あとはあなた方が煮るなり焼くなり勝手にせよ、と放置する悲しむべき現実を見聞きします。
 人の集まるところには、様々な問題が生じます。それらは、正しく、互いの愛を持って処理されなければなりません。
 宗教教育は、説教を聞かせるだけで完成されるものではありません。現実のさまざまな問題のなかで、それはなされ、身につくのです。そのためには人格と人格がぶつかり合う戦いがあります。王たるものがその戦いをしなかったなら、彼等のうちに神の喜びなさる姿が、薫陶されるでしょうか。それはありえないことです。
 教会の集会を守る習慣、教会を愛し、教会の働き人のために献げることを、委ねられている人々に教えなければなりません。

 このように考えてくるとき、私たちは、神の祭司であり、預言者であることを身震いする懼れをもって受けますが、同様に「王である」ことにも身震いを感じざるをえません。しかし、委ねられたものを愛するなら、尻込みするのではなく、神を信じて祈るべきです。
「これらの者たちは、あなたの偉大な力とその力強い御手をもって、あなたが贖われたあなたのしもべ、あなたの民です。ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。」
(ネヘミヤ記 1:9-11)

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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