論説
— 聖霊と聖化 ー
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。」(ヨハネ 14:16-17)
「真理によって彼らを聖め別ってください。」(ヨハネ 17:17)
「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒の働き 1:4-5)
「アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。」(使徒の働き 3:13)
「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」(使徒の働き 2:33)
冒頭最初に掲げたみことばは、イエスが地上におられたときは、聖霊がまだ人に注がれていなかったことを示しています。
イエスは十字架の死と復活、昇天を経て父のみもとに行かれ栄光を受けられました。そして最後の晩餐の席で弟子たちに約束されたとおり、弟子たちはじめ信じる人々に聖霊を注がれました。この注ぎは旧約の時代にもイエスの在世当時にもなかったものです。これが新約の時代の始まりであって、聖霊はイエスを信じるひとを聖化し、そのひとに内住される時代となったのです。
バプテスマのヨハネの宣教、イエスと弟子たちの宣教によって救いの恵みに与った人々がいました。しかし全部の人が救われたのではありませんでした。同様に聖化の恵みもすべての人がそれに与かっているのではありません。
・聖化の恵みを受ける前に救われることの必要性
聖化は人が神のご支配に服することに同意することを前提としています。神はひとの自由を奪うことをなさいません。人間の側が神の支配に入ることを承知するのです。このことは生まれつきの(救いの恵みをうけていない)人にはできませんが、新生のいのちを受けたひとにはできるのです。ですから救いの恵みを受けずに、あるいは救いの恵みと同時に聖化されることはあり得ないのです。
・罪性の聖絶
聖化のとき、神は人の罪の性質、「神に従わない私(これを自我というひとびとがいます)」を「聖絶」して、罪と世に対して死んだものとしてくださるのです。聖化は神のみ業であって、人間が「自分をすてて自分の十字架を負ってイエスに従おう」と努力したり、「自分自身のように隣人を愛そう」と努力することによって達することのできることではありません。いいかえるとそれらを行うことが聖化ではありません。聖化されてそれを行えるようになることでしょうが。
・聖霊の内住
「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ 1:27)
キリストが私たちの内のおられる事は聖霊がおられることと同じです。
聖霊が人に注がれるといいますが、聖霊はひとのどこにおられるのでしょうか。
人間は「霊」、「たましい」、「からだ」で構成され、たましいが霊の住むところです。「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(テサロニケⅠ 5:23)
「からだ」は物質の世界に属し「霊」=「人霊」は霊の世界に属しますが、「たましい」がこの二つの世界の両方に属し、霊とからだをひとつの有機体とするのです。
霊はたましいに住むことができます。
イエスは人となられましたから、イエスに注がれた聖霊はイエスのたましいに住んだのです。同様にひとに注がれた聖霊はひとのたましいに住みます。
・聖霊と人霊
救われただけで聖化されていない人の霊(私、我)は聖霊に全くは従っていません。ですから、その場合そのひとのたましいに聖霊は住んでおられますが、しずかに控えておられます。まさに二心の状態です。
聖化の恵みにあずかると人の霊(私、我)は全く聖霊にお従いしますから調和を保ちます。しかし人間の行動は人霊が支配します。聖霊が直接支配なさることはめったにありません。恍惚状態になって預言したりするのがその姿でしょう。
故山本岩次郎牧師は、聖霊は人霊の内に住むと信じていました。アンドリュウ・マーレイもそうです(著書「キリストの御霊」に)」。それは自分の霊と聖霊が一つになってしまうことを意味し、それをジョン・ウェスレイは「熱狂」として反対しています。
「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。」(イザヤ30:20)
聖霊は助言して下さるお方で、直接支配されません。聖化の恵みに与っても私たちは全く普通通りに生活します。