ショートコラムねだ
— 聖化と自由 —
「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。」(コリントⅡ 3:17)
私自身の経験ですが、きよめの恵みに与ったときこころに自由を感じました。
キリスト者の自由は、アルコールを飲みたい人々に「飲んでいいよ」といえば自由になったと感じる、そのようなものではないと分かっていましたが、自由を感じているだけで、それが自分にとってどういうことなのか、何がおきたのか追求しないままに年月が経ちました。
バンヤンは「天路歴程」に、クリスチャンが「疑惑城(うたがい)」に捕らえられて身動きできなくなる様を書いていますが、そのようなものは全く関係ありません。
あるとき学ぶことも何もなく、すーっと理解できました。
「私は罪から解放されて自由になった」と。
前は神に従わない自分の意志、世のものへの願望、執着、それが私を縛っていたのです。
イエスはこのことを明快に述べておられました。
「イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。
・・・ ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」(ヨハネ 8:34,36)
自由とは罪からの解放であると示されています。
パウロは、聖霊の働きを次のように解説しています。
「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した・・
肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされる」(ローマ 8:2,4)
「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ 6:6-7)
つまり、聖霊は人を罪の性質(原罪、罪の根)から解放する、罪の性質を聖絶する聖化の霊であって、人は聖化の恵みに与ると律法(新しい律法、キリストの律法・・命令)を行えるものとしていただけるのです。
最後の晩餐の席でイエスは新しい戒めを与えるといわれ、その内容としてこう言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。・・・わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ 13:34,15:12)