JSF&OBの部屋
キリスト者の一致(8)~望みは一つ~
石井 和幸
「キリストのからだ」である教会は『神が、キリストを通し、また聖霊によってご自身のために、人類のなかから新しい人、新しい民を呼び起こすための道具』であり、『最後的に、すべての罪から解放し、刷新し、栄光あふれる世界に住まわせ、完全にしようとしてご自身が用いられる道具である。すべてがその最後的な栄光に、すなわち、キリストの最後の顕現と永遠の御国に引き上げられ、導かれていくように計画されている』…このことによって、「からだは一つ、御霊は一つ、召しのもたらした望みが一つ」ということの関連性がはっきりすると、著者ロイドジョンズは述べています。
そして、エペソ4章4節にて「召しがもたらした望み」がこの順番にて記されている理由として、聖霊が新生の恵みを受けたものに対し約束の「証印」を押し、「保証」を与えられる事実を挙げています。
『またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです(エペソ1:12・13)』
著者は、私たちキリスト者、福音宣教に携わる者たちが忘れてはならない、エペソ4章4節に記された神のみわざの「配列と関連性」について、吟味しつつ私たちがなお神から与えられた「望み」から目を離さず考察するように勧めています。というのも、私たちは「どこからどのように召されたのか」…ということに拘り過ぎると、教会が分裂してしまう危険性があることを著者は示しています。
一例として…ある野外集会にて、2人の証人が登壇しました。最初に登壇した証人は、自分の体験や生い立ち、信じたときのことの証しをし、彼は自分がどれほどひどい罪を犯してきた者だったか、それにもかかわらず神の恵みがいかに自分の上にあり、悔い改めと救いの経験に至ったかを語りました。
その後、もう一人の、前の人より年をとっている人が登壇しました。彼は最初に証しをした人よりも10年ほど前に救われて信仰を持った人でした。彼はこう切り出しました。
「皆さんは今、私たちの兄弟から、彼の回心のこと、また彼が信じることによって解放されてきた罪深い生活のことをお聞きになりました。しかし、彼は罪がどんなものか分かっていません。私が、罪というものがどんなものかをお話ししたいと思います。」…そう語った後、彼は生々しく事細かに救われる以前の生活についてしゃべり出しました。その話は実質「自分の罪深さの自慢」でありました。彼は、自分の罪と前に証しした人の罪は違うことを示し、そうすることで自分の回心が、他の人とは違ってはっきりしたものであることを証明しようとしたのです。
しかし、それは聖書の教えに反することであり、イエス・キリストの血潮による救いは、全能の神の恵みと御力が必要であり、明確な悔い改めが成されたのであればどんな回心も神の前では究極的にはみな同じものであります。また著者は、今の教会や自分自身においても、立場の区別や現状の対応に心を奪われ過ぎてはならないと警告します。
教会において、壮年、青年、老年、幼子、さらに男性と女性を区別し、そのカテゴリーのなかで教会生活を進めようとします。もちろん若い者が年長者を敬うことは必要ですが、「神から与えられた一つの望みを目指す」というよりも、「信徒がそれぞれ自分たちのために、生きやすいように」という観点に偏りすぎてはならない、神の目には、年齢・性別・社会的立場は関係なくみなが「神の子ども」であり、教会は「神の家族」であります。そして、社会的・政治的な事柄に揺るがされてはならないことも著者は指摘します。ともすれば、今世界各地で起きている紛争など、諸問題に対し私たちの教会はどういうスタンスでいるのか…社会主義的なのか、それとも保守的なのか?その動向に拘ってしまうことによっていつのまにか教会に分裂が起きる可能性があることを著者は示唆します。しかし天の御国を目指すキリスト者は、この世においては「寄留者」「巡礼者」であり、教会は何よりも「みことば」に仕え、「イエス・キリストの福音」を宣教していくことが第一であることを忘れてはなりません。『兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。』(ピリピ3:13・14) 『あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。』(コロサイ3:2)
私は先日、人工肛門閉鎖の手術を受け、当該する病についての全ての治療が一段落しました。2月に召天した母は末期癌でありましたが、母が地上での生涯を閉じる病床においても、教会や家族のために祈り、最後に伝えるべきことをしっかり私たちに伝えて召天され、信仰を全うする姿が心に残りました。私の場合は、なおこの世での生涯をまだまた歩み続けることを神が許してくださったこと、そのために多くの祈りに支えられたことを神に感謝するとともに、神の国への望みを抱き、そこから目を離さずに生きることを求められています。体の機能・障害が回復するまで戦いは続きますし、「こんな自分に何ができるのだろう?」とふと思って怖気づいてしまいそうにもなりますが、そんな私にも神は使命を与えてくださっていることに感謝をしております。また、私の子どもたち2人にも、「神が与えられる望み」を抱き、天にあるものを目指して歩んでいってほしい…イエス・キリストによる新生の恵みと、救いの確信が与えられるように、祈り続けていきたく思っております。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)