同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 生活のパターンを整えること —

「正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク書 2:4)

 生きるとは、どういうことでしょうか。
 朝目覚めたら起きて衣服を着、洗面、トイレ、食事、はみがき・・と常のことを済ませ、仕事にでかけます。こどもたちなら、学校に行くでしょうし、家庭にいる主婦なら、家事をすることでしょう。日中は仕事に没頭しますが、夕方になれば仕事を終えて帰ります。そして食卓を囲んで一家団らんのひとときがきます。その後テレビを見たり、何かをするでしょう。時間が来れば、風呂にはいって、床につきます。ひとにより、家庭により少しずつ形は変わるでしょうが、そのような1日が過ぎます。こうして人は生きています。
 生活には、毎日だいたいこのように過ぎるという1日のパターンができてきます。そして、世の中が1週間単位、1ヶ月単位、1年単位で回っていますから、1周間のパターンができ、1ヶ月のパターンができ、1年のパターンができてきます。
 信仰が、信じていると「考える」、「思う」、そういう「思想」を持っているということにとどまらず、「信仰によって生きる」ことを目指したなら、上記のような生活を信仰によってする、ということにつながってこなければなりません。キリスト教から遠い風土の日本に育ったお互いは、信じているとはいっても、まだまだ根の浅いものであることを自覚せざるを得ません。そのような根の浅い者には、集会出席や聖書を読み祈りの時をもつ、ということが大変重要です。
 もちろん、進学先、就職先を決めるとか、結婚相手を決めるとか、「信仰によって」ということが顕される極めて重要な場面もありますが、それらをひとたび越えると、またそこから先に述べたような一定の生活のパターンができてきます。
 礼拝、伝道会、祈祷会などの集会に、いつも出席しようと心に決めたなら、1週間の生活パターンの中に、その時間を組み込まなければなりません。毎日聖書を読み、祈りの時を持ちたいと思ったなら、1日の生活パターンの中にその時間を組み込まなければなりません。そうしなければ、出来るはずがないのです。
 それらのパターンを決めた生活をしていく時に、そのパターンをくずす出来事が次々と起きてきます。そこにパターンを守るための戦いがあります。仕事だから仕方がないといって、はじめから負けることに決めないようにしましょう。
 教会の集会は、神のおられるところですから、神に近づきたい者は努力してそのパターンを守るのです。日々祈りの時を持ち、聖書を1年に1回通読したという喜びは、生活のパターンを守る努力をした人に与えられます。それを営々とやり通すなら、神は、あなたは「信仰によって生きた」とお認めくださるに違いありません。

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