同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第34回) —

野澤 睦雄

2. 旧約における三つの職務の考察(つづき)
2.2 預言者(つづき)

 前3回に渡って、エーリヒ・ザワーが予言者について語っていることを紹介しました。それによって、予言者像がよく把握できると思いますが、予言者の職務についての考察を追加しておきたいと思います。
 今の私たちの視点に立って、旧約の予言者たちの職務、業績を考えてみると、その最大のものは、彼らが「聖書」を書いたことでしょう。
 旧約聖書の全体が「律法と預言者」(マタイ 5:17、7:12、11:13、22:40、ルカ 16:16、16:29、16:31、ヨハネ 1:45、使徒 13:15、ローマ 3:21など)と呼ばれており、イエスご自身もそれを認めておいでです(マタイ 5:15、7:12など)が、律法もモーセは預言者としてこれを書いたのです。モーセはイスラエルに対して、アロンが祭司職に就くまで、祭司であり、預言者であり、王でありました。モーセ自身自分を預言者としてこう語っています。
「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。」
(申命記 18:15)
ですから、旧約聖書の全体が預言者によって書かれたと解してよいのです。
 旧約聖書のテーマは、イエス・キリストを指し示すことでした。
イエスご自身がこう言われました。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」
(ヨハネ 5:39)
 直接的な言葉による表現、象徴による表現などその手段はいろいろですが、旧約の預言者たちはキリストについて、その誕生、贖いのみ業、死と復活、千年王国の統治、さらに新しい天と新しい地に至るまで記しました。これを「知識」として示したのです。  彼らの「実務」としての働きは、おいでになる救い主(初臨のキリスト)のために、その民を整えることでした。数千年の長きに渡って、その働きは続けられましたが、その最後を締めくくった人物が、バプテスマのヨハネでした。彼は直接イエスのために弟子を備え、人々にイエスを「この方が救い主です」と指し示しました。ですから、その職務の故に彼は旧約最後の最大の預言者でした。これはイエスご自身がお認めになったことです。
「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」
(マタイ 11:11)
 新約のところで論じたいと思いますが、理解を助けるために、比較して述べますと、新約の預言者のその「実務」としての働きは、再びおいでになるキリストのために、その民である教会、すなわちキリストの花嫁を、整えることにあるのです。キリストについての「知識」ももちろん必要ですが、大切なことはキリストの花嫁に相応しい「聖・義・愛」の「品性」を備えることで、イエス・キリストご自身がそれを備え、信仰によってそれを受け取りなさいと命じておられるのです。新約の預言者の働きを介して、信じる者の内に聖霊がそれを実現されます。
 その働きの現場は、永遠の世界の知識といったところから出発してはいません。パウロが、「そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。」(テサロニケ人への手紙第二 1:11)と祈っているように、キリスト者にふさわしくない生き様をしている信徒を、相応しい者になるよう牧師は指導をすることでしょう。私たちが子どもを育てるとき、何の訓戒もせずにいたら、義と愛にまっすぐに育ったなどということはありません。そこには必ず訓育が必要になります。同様に、旧約の預言者たちも、神のみ心と違った道を歩む、民や王たちに対して、神のみこころはこうであると語り、勧め、彼らが神の民にふさわしく生きることを求めたのです。
 預言者モーセは、出エジプトしたイスラエルの民と荒野の旅をし、イスラエルが神のみ心に添うようにと、なんと労苦したことでしょう。
 一例として、以下の章を見ておきましょう。「イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか」と言った。民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。」(出エジプト記 17:1-7) モーセはその働きをやり通しました。ここに預言者の働きがあります。
(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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