同労者

キリスト教—信徒の志す—

人物伝

- 山本岩次郎牧師の思い出(7) -

秋山 光雄

第2部  荒川教会週報抜粋集

古い週報綴り5冊

 私の手もとには荒川教会の週報が5冊残っている。残念ながらその他のものはない。
  (A)1951(昭和26)年3月 ~ 1953(昭和28)年4月
  (B)1953(昭和28)年4月 ~ 1954(昭和29)年4月
  (C)1961(昭和36)年3月 ~ 1962(昭和37)年12月
  (D)1963(昭和38)年1月 ~ 1963(昭和38)年12月
  (E)1965(昭和40)年1月 ~ 1965(昭和40)年12月
 これらの週報に目を通し、そこで再確認したものは・・・、
△牧師のガリ版刷りの文字とスケッチ画の上手であること。
△誤字、当て字、文体、用語、送り仮名、点や句読点の打ち方、独特な書き方の読みづらさ・・・などに面食らう点が多々ある。
△荒川教会の週報は単なる予定表、集会記録、礼拝順序、消息欄、集会や献金の督励のみでなく、霊想あり説教の掲載あり消息欄にはメッセージを含めた記述ありと、いかに教会建設と牧会に全力を注いでいたかが分かり、今でも読む者に紙面より惻々(そくそく)とメッセージが伝わってくる。毎回よくも丹念に書き続けたものである。そこに牧師の教会建設への心が見える。同時に自教会、他教会への果敢な開拓宣教の息吹がひしひしと感じられる。
 働き盛りとはいえ実に良く東奔西走、活動したものだと思う。
△ただ開拓建設期であり会堂建設を抱えたため当然とはいえ献金と教勢拡大への強すぎると思えるアッピールが目に付き過ぎる感は否めない。
△それにしてもこのような週報があることは、関わりを持つ関係者には貴重な資料であり、懐かしい思い出ともなっている。

【以下、週報からの抜粋は、当時の原文をそのまま転写する。前述のように読みにくい点もあるが、それによって当時の時代性、牧師の文筆傾向を知ることができる。】

註:一部編集者側で振り仮名を追加させていただきました。(編集委員)


【1951(昭和26)年2月24日・消息欄】

 最近は第一も第三もない休日が、週休になった事が我らの礼拝の充実には非常に好都合となったことである。しかしそれを罪への機会とせず神に近づく機会とすることが救われた者の義務である。そうしたことは我らの生活に関係した全てにあてはまる事である。与えられた特権を罪の機会とせず、それを愛の機会、善への機会として用いる者となる事、それを神は我らに期待したもう。それが「ねばならぬ」といった律法の強制によらず注がれた神の恵みと能力によってなさしめられる時、それがパリサイ人に勝れる善事として神に嘉納せられる所となる。

【1951(昭和26)年5月27日・消息欄】

 開設3周年記念感謝の為。
 「この日より以前(さき)すなはちエホバの殿(みや)にて石の上に石の置かれざりし時を憶念(おもふ)べし」(ハガイ 2の15)
 昭和23年、年会に上京された牧師たちの応援を得て開設伝道集会を、丁度それが牧師の40回目の誕生日である5月25日であった。30日の日曜日まで連続して持たれた此集会を驚くべく恵み給うて、結果20名の受洗者が7月11日、江戸川の清流にて生命の書にその名が記されたのだった。従来の関係者の10名程を加えて30名前後の会員で始めから独立自給教会を創設した。当分は船橋から通ってと出発したのであったが受洗者の中から神は八木先生(医師)を備え、其心を開かしめ、新築したばかりのお住居を提供せしめられトラックの御心配までして頂き感謝の中に転出の困難な東京に。それは6月16日であった。7、8月もまたたく間に過ぎて8月中旬、八木家の御都合で引越しをしなければならなくなった。神の摂理であったと時が経てば経つほど思わしめられる。大いなる信仰的決断と油井兄姉の御好意に現在の処に住居の建築に取りかかる。10月5日まだほんの囲みの出来たばかりの家に引越しをし畳の入ったのは12月の終わり頃であった。もちろん引越と間もなく工場の集会場をやめて、こじんまりと牧師宅で始めたのであった。天井も畳もない部屋で牧師一家8人、開戦間もなく建築に。当時の国情を知る者はそれが如何なる困難な中に於いて為されたかを知るであろう。神に凡ての栄えを帰するは当然の事である。新設、自給、呼吸もつかない戦いが続いたのは当然である。越えて24年12月10日より増築に着手。こんなにまで精力が続くものかと思われる程10坪ばかりのもの何もかも牧師と献身者の二人で、バラックと22坪半ほどの会堂と牧師館。全く何の背景もなく貧しい群れの祈りの家、然し凡てが祈りと汗の結晶である事を思えば天を弄する何処かの会堂から見れば大いなる感謝であり溢れる涙を禁じ得ないものである。
 満3年の記念日を迎えて「回顧と展望」の嶺に立って居る。神の恵みは豊かであった。戦の中にも3人の献身者を神学院え送った。幼き魂ももう3歳の誕生日を迎えた。牧師の心を痛めた幼児も段々一人歩きが出来る頃、此現実を足場として我荒川教会も諸教会から見ならば実に辿々しい、人の歩みに心取られるなら自らの足下を見誤る。「なんじ真理(まこと)の為に挙(あげ)しめんとて、汝を恐るるものに一つの旗を與へ給へり。」(詩60:4)
 是以外の事ではない。谷間に行け。石をとれ。ダビデの如く万軍のエホバの名によりてゴリアテに征(ゆ)け。

 (以下次号)

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