同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— あなたのペンテコステはきましたか? —

「主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。」」(出エジプト記 32:9)
「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。」(申命記 10:16)
「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」(レビ記 11:45)
「あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」(レビ記 11:44)
「あなたがたを聖別する主、わたしが聖であるから。」(レビ記 21:8)

 今年の教会暦では5月23日がペンテコステです。アダムから現在までおよそ6000年ですから、主の十字架と復活からペンテコステに至る一連のできごとは、歴史上のほんの一点でまとまって起きたできごとです。
 さて、引用したみことばは、エジプトでの奴隷生活から解放されたイスラエルの人々に告げられているものであって、私たちの時代には、すでに救われているキリスト者に語られているものと理解されています。命令の内容はふたつあり、そのひとつは「あなたがたはうなじのこわいものであってはならない」、もうひとつは「自分の身を聖別・・神のものとして取り分けること、神に献げること・・し、聖とされるすなわち神の聖なる性質を持つこと」です。本誌123号の論説に「日々のきよめ」ということを述べましたが、それは「うなじのこわい」状態から解放されて歩むことに他なりません。うなじのこわい性質は「聖絶」されなければなりません。うなじのこわさの聖絶が杯の内側を潔めることです。
 この聖絶なしにうなじのこわいものではない者の如く生きようとすると、きっとローマ人への手紙7章のようになるでしょう。神の前にうなじがこわいということは人の本質であって、それを聖絶するということは自分で自分を聖絶するようなもので、自分にはできないのです。もうひとつの「聖別」についてですが、人は献身の心で神の前に行くことまではできますが、できるのはそこまでで、神が受け取ってくださらないと、聖別されません。
 これまでうなじのこわい者であったことすなわち不従順に生きてきたことを悔い改め、自分の身を「聖い、生きた供え物」(ローマ 12:1)として献げるならば、聖霊は不従順の性質を聖絶し、私たちを聖別し、聖なるものとして下さいます。それが私たちひとりひとりに与えられる「ペンテコステ」です。神は私たちが「信仰と聖霊に満たされた人」(使徒 6:5)となれることを約束しておられます。十字架と復活と、ペンテコステがわずかの期間になされたように、救われて後すぐにペンテコステを迎えることを、神は私たちに対して期待しておられるのです。(使徒 1:4)

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