同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

父親2年生

石井 和幸

「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇 51:17)
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ 4:6-7)

 5月に入りました。ゴールデンウィークは、今年も家族で教会キャンプに参加する予定です。昨年の教会キャンプの頃は、娘は0歳7ヶ月。母親から少しでも離れると泣きわめく、母親以外の人は受け付けない時期でありました。私は1泊2日のキャンプにて、何とか母親である家内だけではなく、父親である私に懐いてもらおうと、娘を抱っこし、2人きりで散歩を繰り返しました。娘は泣きつづけましたが、2日目のお昼頃になってようやく、私に懐いてくれました。 ・・・あれからもう一年が経ち、時の流れは早いものだと痛感しています。
 3月末に、我が家で牧師夫妻をお招きして、家庭集会をもちました。その際、私は質問を先生にしました。「仕事がおわって帰宅すると、娘は遊んで欲しいと私にせがんできます。『お父さんがまず夕食を食べてから』と言い聞かせ、娘に付き合いますが、自分がやりたいこと、やっておきたいこともある中で、どのくらい娘と関われば良いのでしょうか?」 先生は私に「いいですか、子ども優先です。夕食なんか後回しでもいいから娘との時間を大切にしてください。『俺は親父なんだ』という気持ちでふんぞりかえっていると大事なことを見失ってしまいますよ」 と即答されました。私ははっとしました。以前、「教会の働きはひとりの若き、幼き命・魂 のために行われるのです」と先生が私に強く教えてくださったことを思い出しました。 一ヵ月たった今、娘にある変化が起きています。それは、叱られた時の態度です。 今までは、親が叱ること自体に腹を立て、不満をあらわにしながら泣いていました。
 けれども最近になって、私が叱ると娘は、私の目をじっと見て、それから叱られたという事実を噛みしめるように泣いています。 それは、愛してくれる人を怒らせ、悲しませてしまった・・・娘にも少しずつではありますが、そういう感情が芽生えているのを見ることができました。
 3月の家庭集会から一ヵ月の間、私は特に意識をして、仕事から帰宅すると、夜遅くまで、娘が納得いくまで遊ぶ時間を取るように励みました。スーパーへ買い物に行くと、家内とは別に2人だけで、娘の興味のむくままに、一緒にいろんな物を見て廻りました。また、思い切って土曜日に休みをとって、児童館へ娘と2人で出かけたりもしました。 そうしているうちに、私は娘に対し、幼子というよりも、ひとりの人格、友に対して話しかけるような、 時にそんな感覚を持つようになっています。そして、私は叱るとき、「なぜお母さんを悲しませるようなことするの?」ということばを使うようになりました。
 父親2年生、娘と私との心を通わせる営みは、始まったばかりです。とても感謝なことは、幼い娘と心を通わせることにとり組んで下さる牧師、伝道師の先生方、教会の兄姉が多く与えられていることです。たったひとりのために命を投げ出し、十字架を負い、喜びと涙をともにする。それがイエス・キリストの福音です。この福音はまず親を通して見いだし、感化されなければ、どうして子どもは真理を掴むことができるのでしょうか? 自らの家族へ真実を尽くす。それが主への献身の証しとなることを覚えつつ、祈り、取り組んでいきたいと思っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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