同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 無理が通れば、道理がひっこむ —

 インターネットのニュースに小さな記事が載った。
中国の記者が東日本大震災を取材して、次のような内容を、本国に流したものが紹介されたのであった。
「えらいぞ日本人。信号機が消えている交差点で、自動車がクラクションをならさず、譲り合って通っている。」と。

 なるほど、比較的交通量の多い仙台バイパスに信号が消えている交差点が多数発生したが、そろそろっと車の頭をだすと、止まってくれる車があり、脇道から入ったり、横切ったりすることができた。
しかし、これが遠くからやってきて取材し本国の記事になる大事なのである

 大分前に上海にいったことがあるが、信号の無い交差点はそれはそれはけたたましい。
多くの車がクラクションをならしっぱなしであった。
そうやって、ぐいぐい割り込んで行かないと、いつまでも通れないのだそうだ。正に道理は引っ込められて、道理どおりには通れないのであった。

 さて、自動車の運転には時折「争い」がある。
もう何昔も前にと言えるくらい時が経ったが、勤め先の人の運転に関する言い分は、「鼻先を、先に突っ込んだ方が勝ち」であった。
だがその人は、よく事故を起こした。

 私も、かなり前のことであるが、自動車の運転中に、神からご注意をちょうだいしたことがあった。
「主の僕は争ってはならない。」(IIテモテ 2:24)と。
空いている道路を制限速度で走れ、などと言われたのではなく、運転にまつわる「心」を指摘されたのであった。

「主の僕」と呼んで下さったぞ、と意を強くして、み心に添うよう心がけている。
道理を通そうとすると、時には争いが起きる。だから、道理が引っ込んでも意に介さず・・。

「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブ<押しのける者>と呼んではならない。あなたの名はイスラエル<神の王子>でなければならない。」
(創世記 35:10)

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