同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 矯正 —

山田 大

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
(Ⅱテモテ 3:16)

 今年の年頭にこの一年のために与えていただいたと信じる御言葉です。「矯正」という言葉は広辞苑で引いてみると「欠点をためなおすこと」とあります。この「ためなおす」というのは「たむ」と「なおす」を合わせたもので、「たむ」とは現状を改めて正しくする、「なおす」とは元のように正しくする、と方向性に違いがあるけれど2つの「正しくする」という意味を持つ言葉が結びついています。人は神の言葉によって現状を改められ、お造りになった方の許へ戻していただかなくてはならない、というのが聖書の教えです。
 私にとっての矯正の源をなすものは、イエス・キリストの十字架によって罪の中から救っていただいたこと、神に背を向けていた人生から神に向う人生へと180度変えていただいたことに他なりません。私は生れた時から教会に通い、多くの方々のキリストの救いの証言を聞いて育ったにも関わらず、自分の目で神を見なければ信じない、というヨハネ20章のトマスのような者でした。その私に対して神は私がどのようにあがいても信じざるを得ないほど鮮やかにご自身を現して下さり、「私の主。私の神。」と呼ばせて下さいました。神はトマスに対してと同じように「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」また「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と力強く語りかけて下さり、私の誤りを正して下さいました。
 今年もクリスマスの節季が近づいて来ました。今から8年前、2002年のクリスマスには、羊飼いの家族にスポットを当てた劇をしました。羊飼いの息子は、こんな片田舎で親の後を継いで羊飼いをして一生を終わるのだと思うと、その地味な生活に耐え切れず、自分は世界の中心で脚光を浴びて生きて行きたい、と家を飛び出します。しかし都会で挫折を味わった彼はもう一度故郷へ戻り、父の許で再び羊飼いを始めるのでした。そんなある日、父と共に野宿で羊の夜番をしていると、突然天の御使いが現れ、救い主の誕生を知らせてくれるのです。羊飼いの息子は、今自分のいる場所が世界の中心であることに気づかされるのでした。そんな息子に羊飼いの父親は言います、「どこが世界の中心かなんてどうでもいいんだ。大事なのはおまえたちが心から神様を求めればそこに神様がおられるってことだ。自分が一生懸命生きている場所を輝かせればいいのさ」と。
 若い時に華やかな世界に憧れ、そこに自分にとっての世界の中心があるかのように錯覚してしまうことはよくあることでしょう。しかし神は私たち一人一人に対して、自分の人生をどのように捉えるべきかを教えてくださり、私たちの誤りを正してくださいます。
 私も気づかされました。神を見なくては信じることは出来ない、と頑なな心を持っていた自分の姿。しかし生れた時からいかに幸いな環境の中に置いていただいていたか。いつもいつも聞かせていただいていた神の言葉、聖書からのメッセージ、十字架の救いの証し、それらが世界をお造りになった神様からの私に対しての語りかけであったことに。まだ救いを知らない方々が真の神を見出し、自分の人生を神の方向へと軌道修正していかれることを願って止みません。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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