巻頭言
— いのち —
齊藤 望
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(II コリント 4:16-18)
このたびの東日本大震災により多くの方々の命が失われ、また多くの方々が被災者となり悲しみと不安と戸惑いの中に生活を送る日々が今も続いています。最近はライフラインも回復し、復興が少しづつ進んでいますが、多くの人の生活環境や心持ちは地震以前とは大分変化しているように感じます。
仕事柄、被災された方々と接することが多いため当時の出来事や心境、不安を伺うことが出来、様々なことを考えさせられます。私自身は地震時には家族とともに居り、その最中「なぜ今地震なんですか。」と主に問いかけている自分がありました。そこには自分の計画や、行動について実現が困難になるのでは無いかという思いがあったからです。その思いは離れている家族、教会の方々、関係する人々の無事を願う祈りよりも先んじて出てきました。その直後に自分はこんな時にも自己中心的な(もちろん生活設計のことですし家族のことを思っての考えではありますが)思いを持っている事が示されました。その事は祈り導かれるよう願っていた問題でした。
その後2ヶ月の間、仕事が忙しく日曜礼拝を守ることが困難になってきました。そんな中、時間を見ながら今は教会学校の時間、礼拝の時間とわずかの時間ではありますがそこに気持ちを置くようにしていました。しかし、その時間はほんの1、2分祈る事でした。連続する仕事の中、わずかな時間を取ることさえ非常に困難でした。
教会に行けなくとも祈ることは出来るし、讃美することも出来ます。しかしながらそこにはメッセージがありませんでした。
その様な時、自分の信仰について不安が大きく沸き起こりました。それは教会に行き、礼拝に出席したい、メッセージが聞きたいということでした。日々の生活の中に牧師先生より語られる講壇からのメッセ-ジが信仰の地図のように思われたからです。メッセージなしで歩むことの不安を覚えたのでした。それはまさに天路歴程の基督者のような思いでした。
教会学校では月に一度、天路歴程を学んでいますが基督者が不安な中を高嶺を目指して歩みながら多くの困難に出会い助けられる場面を読み、「そこは危険なところ、入らないほうがよい」と思い、「地図があれば迷わずに行けるのに」と自分の信仰の道筋を思い起こしながら学んでいます。
教会の集会に出席できなかった時を通して教会の大切さや、牧師先生のメッセージの重要性、皆さんとの交わりの大切さがわかりました。
教会に生き、メッセージに従うことが私には大切なことがわかりました。そこが私の信仰のいのちであることが・・・。
冒頭の御聖句は今年与えられたところです。
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
信仰によりて仰ぐ我を かえりみ
捧げまつる我が祈りに 応えたまえ
わが主よ
み恵みもて我が汚れを 潔くし
今日より我を君のものと なさせたまえ
わが主よ
み力もて我が弱きを 強くし
わが心に御霊の火を 燃やしたまえ
わが主よ
闇の夜をも昼にかえて 導き
わが涙をぬぐい去りて 守りたまえ
わが主よ
わが身死なば愛の御手に いだきて
いとやすらに天つ国に ゆかせたまえ
わが主よ
インマヌエル讃美歌一四三