同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第66回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

3. 新約における三つの職務の考察(つづき)
3.1 新約の祭司(つづき)

 ヘブル人への手紙の記者は、イエスがご自分の血を携えて聖所に入り、そこでなす役割をこのように記しています。
「「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル 10:16-22)

 理解を助けるために要点を箇条書きにすると、

・神の律法が私たちの心に記される
・神は私たちの罪と不法を思い出すことはしない・・・すなわち私たちの罪と不法を赦される
・邪悪な良心をきよめられる
・まことの聖所に入り神に近づくことを許される

ということが挙げられます。そしてイエスは私たちがそれらを与えられる「生ける道」となられたのです。

 「神の律法が私たちの心に記される」ということについて、先に旧約の預言者に関連して述べていますが、もう一度解説しますと、これは聖書のことばを思い出すことができるとか、新しく神が直接聖書以外のことばを教えられるというようなことではありません。神のことば、みこころが、私たちにとって最重要なものとしての「重さ」、「支配力」を持つということなのです。それが私たちを「認罪」に導き、十字架の贖いに対する「信仰」に導くのです。「神と神のことばを<畏れる>」ことであって、それなしには真の悔い改めと救いの信仰に至ることがありません。ですから、これはイエスの血の力によって私たちの内に生じるものでありますが、これなしには、罪を赦され、心をきよめられ、神に近づくことはできません。これは、「神に従うこころ」、「砕けた心」によって顕されるものであって、そのように重要なものです。
 私たちはしばしば、「聖書のことばに畏れを持っていない」にも拘わらず、私はキリスト者です、と公言している人々に出会います。聖書に「こうせよ」「こうしてはならない」と命令されている事項を破ってもなんの痛痒も感じていないのです。
もちろんその反対に、真摯に神のことばを畏れて生きている人々にも出会います。身近なところで、私の教会の兄姉が豊かにその姿を示してくれています。

 次に「私たちの罪と不法を赦される」ということについてですが、それはつまり祭司の働きによって、神に敵対するものであったものたちが、赦されて、神がそれを「思い出さない」、すなわち「忘れてくださる」、「罪と不法がなかったもののように私たちを取り扱ってくださる」ことです。
私たちは与えられた恵みがいかに大きいものであるか忘れないために、自分の「切り出された岩、掘り出された穴」(イザヤ書 51:1)を思い見ることが必要ですが、それは私たちを萎縮させるものではなく、かえって大胆に、神に私たちを近づけるものです。
「確信」ということばがありますが、「確認済みの」「信仰」と読むといいのです。神はこのような罪と汚れに染まっていた私を、恵みに入れてくださった、ということを経験済み、確認済み、なのですから、私は神が約束を違えることのないお方、神は約束通りに私に恵みをくださると信じるのです。

「邪悪な良心をきよめられる」とは、なんと深い恵みでしょう。神の似姿である「聖」がそこにあります。イスラエルの民に、神はこう命じられました。
「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」(レビ記 19:1)
旧約の民が命じられたことは、新約の私たちには、霊的なもの、天のもの、真のものとしてのそれを受けることを命令されていると理解すべきです。
ヘブル人への手紙の記者は、大祭司イエスの血の力によって「神に近づくことが許されている」ことを述べるとともにこう警告します。
「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見る(主にお会いする)ことができません。」(ヘブル 12:14)
 何か努力して「聖になる」のではありません。ただ、砕けた心をもってイエスの血の潔める力を受け取るだけなのです。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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