同労者

キリスト教—信徒の志す—

賛美歌物語

— 聖歌402番「おかにたてるあらけずりの」 —

      作詞、作曲;ジョージ・ベナード(1873-1958)
     引照;「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
     それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの      
     打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(ペテロⅠ 2:27)      


<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:賛美歌物語:
(これは、101 HYMN STORY by Kenneth W. Osbeck(KREGEL) の中から、有名な賛美歌を選んで、適宜、翻訳し、週報に連載したものです。)から許可をえて転載。

  • こちら
  • にアクセスすると元の文を読むことができます。>

     どのような集会であっても、賛美指導者が、愛唱歌を募ると、一度も、「おかにたてるあらけずりの」がリクエストされないということはほとんどない。クリスチャンも未信者も同様に愛唱するこの福音賛美歌は、1913年に、ジョージ・ベナードによって書かれた。この賛美歌は、20世紀のすべての賛美歌の中で最も人気のある賛美歌のひとつです。

     ジョージ・ベナードは、オハイオ州ヤングストーンに生まれたが、彼の両親は間もなくアイオワ州アルビアに、続いて同州のルカスに移った。そこで、ジョージ青年はキリストを彼の個人的な救い主として受入れた。ジョージは父の死後、16歳になる前に、救世軍に入隊した。ベナードとその妻は、ある期間、この団体の士官として奉仕した。その結果、ベナードは、彼の熱心な奉仕を高く評価したメソジスト監督教会によって任職された。ある期間、彼は、特に、ミシガン州全域やニューヨークにおいて、リバイバル集会の奉仕に非常に熱中した。あるとき、ミシガンより帰る途中、辛い経験をし、その経験が、彼に、十字架の意義について、また、使徒パウロが「キリストの苦しみにあずかる」と語ったときに意味したことについて真剣に考えさせられた。ベナードは、これらの真理について黙想するうちに、十字架が、単なる宗教的な象徴ではなく、福音のまさに中心であることを確信するようになった。ジョージ・ベナードはこの賛美歌を書いたことについて、次のような文章を残している。

     私が、1913年、ミシガン州アルビオンに滞在中のある日、霊感がやってきた。私は「丘に立てるあらけずりの」を書き始めた。まず、メロディーを作曲した。最初、私の書いた詩は不完全であった。完成した賛美の言葉は、私自身の必要に対する答えとして、心の中に与えられたものであった。その後、間もなく、その賛美歌は、ミシガン州ポカゴンにおいて、1943年7月7日に開かれた特別集会で紹介された。ポカゴンの教会以外の場所でその賛美が歌われた最初は、シカゴ伝道協会においてでした。そこで、この賛美歌は多くの会衆の前で披露され、すぐに、国中で非常に評判になった。

     この賛美歌を書いたすぐ後で、ジョージ・ベナードは楽譜を、当時の指導的な福音賛美歌の作曲家であったチャールズ・ガブリエルに送った。ガブリエルの「君は、きっと、この賛美歌の評判を伝え聞くことになるだろう。」という予言は、すぐに実現し、「おかにたてるあらけずりの」は、アメリカのキリスト教界および、一般社会において、最も広く出版される歌の一つとなった。

     ベナードは、この賛美歌を書いて後、40年にわたって福音宣教の奉仕をした。彼は外にも、有名な賛美歌を書いたが、「おかにたてるあらけずりの」ほどに反響のあるものはなかった。1958年10月9日、85歳で、ベナードは彼の十字架に代わりて、たまの冠を受けた。彼はその生涯の最後の数年を、ミシガン州のリード・シティから北に数マイル行ったところの道路のすぐそばで過ごした。この家の近くに、なお、12フィート(訳者注;約3.6メートル)の高さの十字架が立っており、「『おかにたてるあらけずりの』-この愛唱賛美歌の作者、ジョージ・ベナード宅」と記されている。 
            
     私たちは、十字架をそのような礼拝の対象とするのではなく、十字架上のキリストを礼拝するのだと、しばしば言明されてきたが、失われた人々を贖う神のご計画における十字架の中心性を強烈に知ることなしに、キリストの贖罪の真理を熟考することは出来ない。