同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(33) —

野澤 睦雄


「 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ 21:22)
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」(マタ 18:19)
「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」(ルカ 18:1)
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ 15:16)
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(エペソ 6:18)

3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎

 救いの恵みに与ると、新生のいのちが与えられますが、その新生のいのちには、「信仰」という機能があって、なにも考えなくても呼吸のように自然に神を信じ、また神のことばである聖書を信じて生きていることができます。
 またそれまでに持っていなかった「愛」を持っている人になります。その愛はこれまでに解説したように、父なる神への愛、イエス・キリストに対する愛、教会と信者である兄弟姉妹に対する愛、夫婦の間だの愛、親子の間の愛、隣人への愛が生まれつきのままの人がもっていない愛に変わります。
 新生のいのちの機能のもうひとつの大きな特徴に「祈ることができる」ようになることがあります。

 <祈り>
 祈りについて考察するにあたり、まず聖書に書かれている実例をみてみましょう。おそらく読者の皆さんがよく知っている記事であろうと思いますが、聖書を読み返して考察するのは大変益になります。

   - 祈りの実例 -
(創世記 18:16-33)を読んでください。その一部だけをここに引用します。
「その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。・・・わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。・ ・・そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。・・・アブラハムはまだ、主の前に立っていた。 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。・・・もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。」

 この記事には学ぶべきことがたくさんあります。
 神はご自身がこれからなさろうとすることをまず預言者に伝え、それから実行なさるのです。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」という神のことばがそれを示しています。
 「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」(アモス書 3:7)
のです。
 神が預言者にこれからなさろうとしておらえることを告げるとき、預言者にはそれに介入する・・・神のなさろうとすることを変える・・・チャンスが与えられています。
モーセもそうでした。イスラエルが荒野で神に逆らったので怒られ、彼らを滅ぼし、モーセからでる民でやり直すと、神はそう宣言されたのです。私たちは後のことを知っているので、それを軽く読みとばしてしまいますが。
「主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。・・・わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」 しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。・・どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。・・・すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。」(出エジプト記 32:9-14)
 アブラハムがソドムが滅ぼされないように願ったのは、もちろんロトを気遣ったためです。ソドムの滅びを止めることはできませんでしたが、彼の祈りは聞かれ、神は天使を遣わされてロトを救出なさいました。
 しかしロトの問題は肉体の救出によっては解決されませんでした。イエスが4人のひとに運ばれてきた中風のひとに先ず言った「「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。」(マタイ 9:2)は、イエスは根本問題の方をまず解決されたのであることがロトの例で分かります。

(仙台聖泉キリスト教会員)