同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 苦しみをともにする —

齊藤 望


「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。多くの証人の前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。」」(テモテⅡ 1:3)


 冒頭の御言葉は最近聖書から与えられた箇所です。その中では恵みによって強くなることと使徒パウロから聞いたことを教える力のある忠実な人達にゆだねることと使徒パウロと苦しみをともにすることの点が書かれていました。
 講壇から「主は我が礎」と題し説教が成され、山上の垂訓から語られております。
 私たちの感情や心持ち、苦しみについての神からの助けがあり、不足を恵みによって満たされていくことを教えられました。
 私は多くの兄弟姉妹たちと子供のころから(生まれた時から)ともに成長してきました、その成長の過程には多くの困難や疑問がありました、しかし同様に多くの喜びや楽しみもありました。
 例として挙げると夏のサマーキャンプです。各地から集まってくる同世代の友と会い楽しく語る時があり、期待と満足度は最高でした。
 しかし、分科会で語られる事やお証を聞き自分の考えの無さや信仰に対する不安は募るばかりでした。その不安を持ち続けることで自身の信仰がたもたれたように思います。
 特に伝道活動については、方法、取り組み方、自身の信仰の状態など様々なところから議論し、教えられ、多くの教会の同世代(当時の20代前半)の人々との考え方の違いや伝道に関する思いを聞き改めて自分の信仰の未熟さや考えの無さを示されたものでした。
当時は、音楽を通して伝道をし、導こうと思っておりました。その為には人に聞かせることのできる技量が必要であり、そのことで共感と感動を与えることが大きな目的であると考えていました。(もちろんのこと音楽ですからうまいに越したことはありませんが。)
 そのために多くの時間を費やし、結婚が与えられても音楽の活動を主とした働きとして妻もともに励み続けていました。
それは伝道するという目的の中で取り組んだことですが、何よりも教会を中心として家族とともに生きることを、身をもって教えられました。
私自身が多くの足らないところがあり、伝道するのにふさわしいのか思いもしたりすることがありましたが神は私を守り導いて下さたこと、そして神の祝福は足らないところを満たしてくれたと振り返り実感しています。
 ここ数年、日曜日の朝の学びでパゼットウィルクス著の「救霊の動力」を読んでいますが幾度読み直してもで気づかされることが多くあり、特に長い間伝道してきたと思っていたことの大きな勘違いを示されました。
 私は人を救うためには教会に慣れ、聖書を理解し、説教が分かり、自身が罪人の自覚を持つ迄時間が必要だと思っていましたが、本書の中では神の救いは瞬時に行われるとありました。聖書中に書かれている、取税人ザアカイの悔い改め、スカルの井戸におけるサマリヤの婦人の告白、姦淫の現場で捕らえられた女、十字架上の強盗、ピリピの獄吏等が僅かな時間の中で救われたことから論が展開されていました。
 伝道して人を救うということは、教会に導くことも重要ではありますが、罪からの解放について十分なみことばを供え、適切に導くことの大切さを教えられています。
 なかなか実践には気力の必要なことですが神は足らないところを満たしてくれると信じて励みたいと願っています。

 「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。あなた方の咎が、あなたがたとあなたがたの神との仕切りとなり、あなた方の罪が御顔を隠させ、聞いて下さらないようにしたのだ。」(イザヤ書 59:1-2)

(仙台聖泉キリスト教会 会員)