同労者

キリスト教—信徒の志す—

信仰良書

   — 神への道(88) —

     D.L.ムーディー著    



<雲よりも高く昇れ>

東洋から来たひとが、一人の友人が登山をして夜を過ごし、翌朝太陽が昇るのを見た経験に関して述べたことについて、私たちに話してくれました。
一行が山を登っている時、頂上に着く前に嵐がやってきました。この友人はガイドにこういいました。「私はこの登山を諦めるから、連れ帰って欲しい。」ガイドは微笑んで答えました。「もうちょっと登ればすぐ嵐の上に着くと思いますよ。」彼らは進んでいきました。するとまもなく夏の夕べのように静かなところに行き着きました。
下の谷では恐ろしい嵐が荒れ狂っていました。彼らは雷鳴を聞き、稲妻が光るのを見ることができましたが、山の頂上ではすべてが静かでした。
「ですから、お若い友よ、あなたがたの回りがすっかり暗くても、もう少しお登りなさい。そうすれば暗闇は去りますよ。」とその老人は続けました。私はしばしば勇気を失いそうになりますが、そのときはいつも彼が言ったことを考えます。さあ、もしもあなたがたが下の谷で厚い霧と暗闇のまっただ中にいるなら、もう少し高く登り、キリストにもっと近づき、もっと彼を知ってごらんなさい。あなたがたは聖書の語ることを思い出しましょう。キリストが十字架上で息を引き取られた時、世界から光が取り去られました。
神は神の一人子を世の光として遣わされました。しかし人々は光を愛しませんでした。なぜなら光は彼らの罪を明らかにしたからです。彼らがこの光を取り除こうとしたとき、キリストは弟子たちになんと言ったでしょうか?
「あなたがたは私の証人となります。」(使徒 1:8)彼は私たちの執りなしのために更に高く昇られました。しかし、彼はこの下の地で私たちが彼に代わって輝くことを望んでおられます。「あなた方は世の光です。」(マアイ 5:14)ですから私たちの仕事は輝くことです。人々に自分に注目させようとして、自分のためにラッパを吹き鳴らすことではありません。私たちがしたいことはキリストを示すことです。私たちがどんな光を灯しても結局それは借り物の光です。
ある人が若いキリスト者に言いました。「悔い改めたって!それは月の光にすぎない!」若者は彼に言いました。「図解を示していただいて有り難うございます。月は太陽から光を借り、私たちは義の太陽から光を借りますから。」もし私たちがキリストのものであったら、私たちはこの地でキリストのために輝きましょう。やがてキリストは私たちに報いるため、彼の家に迎えてくださるでしょう。

<盲人とランタン>

 私は自分の傍らにランタンを灯して道ばたに座っていた一人の盲人について聞いたことを覚えています。自分では光を見ることができないのになぜランタンを持っているのかと聞かれると、彼はこう答えました、ひとびとが彼に躓かないためだと。
私は他の多くの理由よりももっと多くの人々が、キリスト者だと告白する人々の矛盾に躓いていると信じています。
 世の中のすべての無神論よりもキリストにもっと多くの害を与えるものは、冷たい、死んだ形式主義、この世への迎合、持ってもいないものを持っていると主張することではありませんか?
世の人々の目は私たちの上に注がれています。ジョージ フォックスが国内の全クエーカー教徒に、自分の周囲10マイルに光を照らしなさいといったことを思います。
もしも私たち全員が主のために輝いていたなら、私たちの回りにはすべて光が届き、天に喜びの叫びが届くでしょう。
人々は「真理とはなにか知りたい」と言います。
お聞きなさい。「わたしが真理である」(ヨハネ 14:6)とキリストは言いました。
もしもあなた方が真理とは何かを知りたいなら、キリストについてよく知りなさい。
ひとびとはいのちがないと不平をいいます。
多くのひとびとが自分で霊的いのちを得ようと試みています。
あなたがたは自分を元気づけようと、いわゆる興奮の場に自分を投じるかも知れません。しかしその効果は長続きしません。
キリストただひとりがいのちの権威者です。
もしもあなた方が真の霊的いのちを得たいなら、キリストを知りなさい。
多くの人々が霊的いのちを沸き立たせようと集会に行きます。
それは有益であるかも知れませんが、もしも生けるキリストに接することができないなら、何の役にも立ちません。
キリストに接しているなら彼らの霊的いのちは断続的なものではなく、永続するもの、流れ続けるもの、神のために実を結ぶものとなることでしょう。

<キリストは私たちを守られる>

だからキリストは私たちの保護者である。
 非常に多くの若い弟子たちが約束を守れないのではないかと恐れています。
「イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩篇 121:4)
けれども私たちは、あのお方はまどろむことも眠ることもない私たちの保護者であることを覚えています。
イザヤ書41章10節に私たちはこう読みます。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」ユダ書の24節にも同様に私たちはこう教えられます。彼は「あなたがたを、つまずかないように守ることができる。」
「私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」(ヨハネⅠ 2:1)