同労者

キリスト教—信徒の志す—

回心物語

— J・ハドソン・テーラー -<中国に福音の門戸を開いた人> —


<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:40人の美しい回心物語:
("40 FASCINATING Conversion STORIES" compiled by SAMUEL FISK (Kregel Publications)の中から、適宜選んで、毎週の週報に連載翻訳したものです。)から許可をえて転載。

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     私たちは、アメリカ合衆国のキリスト教事業の歴史を紐解くとき、一人の英国人と、その宣教団体について言及せざるを得ないとは、思いもしないが、Eerdmanアメリカ・キリスト教ハンドブックは、J・ハドソン・テーラーの影響が、アメリカ大陸にも及んでいたことを認める。その一部に、「英国人、J・ハドソン・テーラー、中国奥地伝道団を創立した。その宣教団は、超教派の‘フェイス’ミッションの鏡になった」と記されている。

     他にも、Eerdmanアメリカ・キリスト教史ハンドブックの中に、テーラーの宣教団について、「これは本当の意味で、最初の超教派海外宣教団であり、19世紀に、世界宣教の分野で、非常に傑出した役割を果たした'フェイス'ミッションの原形であった。・・・その著作と説教によって、テーラーはその生涯にわたって、大きな影響力を及ぼした。」と記されている。

     更に、ハドソン・テーラーの生涯の影響力に関して、他の著者たちから引用しよう。T・C・ジョンソンは、キリスト教宣教緒論の中で、「宣教の情熱は、J・ハドソン・テーラー博士の非常にすぐれた献身によって設立された中国奥地宣教団のような特定の運動によって広まってきた。その宣教団は、教育はあまり施さないが、霊的準備に力を入れた。その宣教団は、いかなることも、神が備えてくださるという信仰に同意できる宣教師を求めた。・・・その宣教団は、宣教活動の真髄は、キリスト教化することではなく、福音化することであるとした。

     ハドソン・テーラーの回心に関して、A.W.ハルゼーは、1900年4月30日、ニューヨークにおいて開かれた宣教師大会において、「ハドソン・テーラーは、私たちと同じひとりの人に過ぎません;15歳の少年が、遠く離れた所で、母が彼のために、午後の祈りをささげている間に、キリストに導かれた物語から、やがて、彼が、神の直接の導きのもとに、中国奥地伝道団(CIM)のために信仰を持って祈り始めるようになると誰が予想することができるでしょうか。」と語った。

     彼の興味深い回心については、何度も語られてきた。私たちは、マーシャル・ブルームホールによって書かれた「ハドソン・テーラー:神を信じた人」の中から引用しよう(実際には、ハワード・テーラー夫人や、他の人々によって書かれたより詳しい伝記の中にも、同じ物語が出てくるが…)

     ブルームホールは、次のような驚くべき言葉をもって始める。「ハドソン・テーラーの死後、しばらくして、ひとりの著名な編集者が、『もし、ハドソン・テーラーが政治家であったならば、疑いもなく、彼は、私たちの時代の数少ない、すぐれた政治家のひとりに数えられたであろう・・・もし、彼が、お金と事業を携えて中国に渡ったなら、彼が、その全土に宣教師を派遣したように、彼は、中国全土に商人を派遣したであろう。そして、彼の名は、セシル・ローズ(訳者注;英国の植民地政治家・南アフリカ総督)のように、ちまたで有名になったであろう。しかし、彼の中国における影響力と、中国を通して世界に与える影響力とは、さらに偉大なものであり、それ以上に、良いものであるのだが・・・』」

     「14歳の時、ハドソン・テーラーは神に対して、最初の明確な明け渡しをした。キリスト教文書伝道協会発行の小冊子を読むことを通して、この経験に導かれ、また、この経験に関して、彼は数年後、次のように書いた:『ごく幼い頃から、私は、聖霊の働きかけを感じてきた。そして、およそ14歳の時、私は、自分の心を神におささげした。』」

     「世の友人たちは、ある時期、彼の心を、富や世の楽しみに向けさせ、彼を懐疑的で不信仰な教えに傾かせた。彼は、次のように書き記した『私は、神が私をみもとに引寄せるのをよしとされるまで、その様な考え方を持ち続けた。』」さて、さらに、テーラー自身の言葉によって、物語を続けよう。

     「愛する母や妹が、私の救いのためにささげた祈りに対して、神がどのように答えられたかをお話しよう。忘れもしないその日の午後、母は不在で、私は仕事が休みだったので、暇をつぶせるような本はないかと、父の本棚を物色した。私の心を引くような本がなかったので、パンフレットの入っている小さなかごに目をやった。そして、その中から、面白そうな福音について書いてあるトラクトを選び、『多分、最初のところに物語があり、最後のところには、説教か道徳的な教えが書いてあるのだろう;私は、最初の所だけ読んで、残りは、それが好きな人のために残して置こう。』と独り言を言った。

     「私は、全くのんきな態度で、その小冊子を座って読み始めた。その時には、たとい救いというものがあるにしても、私自身のためのものではないと信じきっていたし、それが退屈に思えたら直ちに読むのを止めようと思って読んでいた。その当時、まじめになることを回心と呼ぶことがまれではなかったように思う。しかし、『まじめになること』を回心と呼ぶ代わりに、喜びに満ち溢れることを回心と呼んだほうが良いのではないだろうか?」

     「その時、70~80キロメートル離れた所にいた私の母の心に、何があったのか、私にはほとんどわからない。彼女は、自分の息子の救いのために、強烈な渇きを覚え、また、家から離れた時でもなければ、確保できない時間を得て、息子のために神に祈る特別な機会を与えられたと感じて食卓を立った。母は、自分の部屋に入り鍵をかけ、祈りが答えられるまでその場所を離れない決心をした。母は、何時間も私のために祈り、ついに、もはや、祈る必要がない。むしろ、主の御霊が、一人息子の回心が成就したと告げられたので、神を賛美せざるを得ないという所まで祈った。」

     「一方、私のほうは、その小さなトラクトを読み進むうちに、『キリストの成し遂げられた御業』という一句に一撃を食らった。その思想が、私のうちを駆け巡った。『著者はどうしてこの表現を用いたのだろうか?どうして、キリストの贖いとか、宥めの業といわないのか?』突然、『成し遂げられた』という言葉自体が、私の心に示唆を与えた。何が成し遂げられたのか?たちまち、『罪のための十分で完全な贖いと満足である;代理人によってその負債は支払われた;キリストは私たちの罪の身代わりに死なれた、否、私たちばかりか、全世界の罪の身代わりとして死なれた。』と答えがあった。すると、『もし、すべての業が成し遂げられ、すべての負債が支払われたなら、私に残されていることは何か?』という考えが浮かんだ。それとともに、私の魂のうちに、聖霊によって、光がひらめくように、もはや、私たちは、跪いて、救い主とその救いとを受け入れ、彼を永遠に賛美する以外になすべきことがないという喜びの確信がわきあがってきた。このようにして、母がその部屋で、神を賛美している間に、私は、ひとり、暇つぶしのために本を読もうとして行った古い倉庫の中で、神を賛美していた。」

     「私が妹に、私の喜びの確信を思い切って告げるまでに、数日を要し、しかも、妹が私の心の秘密を誰にも話さないと約束して初めて告げることができた。二週間して、母が、帰ってきた時、私が最初に、ドアのところで、母を迎え、私のあのうれしいニュースを告げようと思った。母の腕が私の首に巻き付き、私をその胸にかき抱くやいなや、母は、『私は知っていますよ。あなたが素晴らしいニュースを話してくれることをずっと喜んできました。』と言った。私は驚いて、『どうして?』と言った。『アメリヤが約束を破ったの?彼女は誰にも話さないと言ったのだけれど。』母は、そのニュースを、誰か人から聞いたのではないと言った。そして、続いて、その小さな出来事について話してくれた。」

     このようにして、困難と悩みによって、また、求める魂に近づくという祝福された結果によって、特徴づけられた神に導かれるハドソン・テーラーの人生は確かなものとなった。ロバートソン・E・スピーア博士は、"キリスト教と国家"の中で、宣教の権威、F.F.エリンウッドの言葉を引用して、「ハドソン・テーラー氏は、1900年に行われた偉大な宣教師大会で、宣教師たちに、それが、初めてであり、また、たといそれっきりのチャンスであっても、即座の救いに狙いを定めるよう主張した。そして、聖霊の働きが、そのような直接的なメッセージを生み出し、それを効果あらしめた実例を語った。」と記している。

     しかし、私たちは、ハドソン・テーラーの生涯の教訓を強調した昔の記事に頼る必要はない。最近、ウォーレン・ウィアーズビは、現代の私たちのための模範として、ハドソン・テーラーを提示した:「テーラーは、資金について、神に祈り、信頼することを学んだ。その日、その時に必要なものを神が備えてくださることを信じて、彼の持っているものを他人に与えることを学んだ。彼の神への信仰と、禁酒生活とは、彼が、ロンドンで医療訓練を受けている間に、敗血症にかかったときにも、彼の命を救った。」

     宣教師の生活は、つまらないものだと感じる人がいるといけないから、私たちは、J・ギルクライスト・ローソン氏の言葉を引用して結論としよう:「1853年、テーラーは中国に派遣された・・・彼の乗った船は、ニューギニア沖で難破しかけた。乗客たちは、人食いの習慣のある島民たちが、海岸に走り出て、彼らを調理して食べるための火をおこしているのを見た。」しかし、神がその将来にある計画を準備しておられた人物が、その船には乗っていた。今日、私たちにも、そのような信仰と勇気を持った人物を、神が与えてくださるように。