同労者

キリスト教—信徒の志す—

賛美歌物語

— 聖歌229番  「おどろくばかりの」 —

       作詞;ジョン・ニュートン(John Newton 1725-1807)
       曲  ;アメリカ民謡
      引照;Ⅰ歴代17:16,17,エペソ2:8,9


<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:賛美歌物語:
(これは、101 HYMN STORY by Kenneth W. Osbeck(KREGEL) の中から、有名な賛美歌を選んで、適宜、翻訳し、週報に連載したものです。)から許可をえて転載。

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    ・・前回まで掲載した「回心物語」が修了しましたので、引き続きこちらを掲載させていただきます。

      英国はオルニー教区教会の小さな墓地に、「ジョン・ニュートン,牧師,かつては、不信仰な放蕩者であり、アフリカの奴隷商人であったが、我らの主なる救い主イエス・キリストの豊かな恵によって、保たれ、復活させられ、赦されて、信仰を宣べ伝える者として任命され、死に至るまで働いた。」と刻まれたミカゲ石の墓石がある。このふさわしい墓碑は、死に先だって、ニュートン自身によって書かれたもので、18世紀の最も偉大な福音説教者の、特異な波乱に富んだ生涯を巧みに描いている。ジョン・ニュートンの母は、敬虔な婦人であったが、彼が7歳にもならないころ亡くなった。彼の父が再婚して、彼は、しばらくの短い期間、家を離れて公の教育を受けた後、学校を去り、父の船に乗るようになった。11才の時である。こうして船乗りとしての生活が始まった。

     彼の若い時代は反抗と放蕩の絶えざる繰り返しであった。何隻かの船で働き、また、西アフリカの島々や本土海岸で、訪れる商人たちに売るための奴隷を集めるうちに、ニュートンは、自分自身の奴隷船を持つ船長となっていた。言うまでもなく、西インドやアメリカのプランテーションに輸送される黒人奴隷を捕らえ、売り、輸送するという事は、残酷で、ひどい生き方であった。

     1748年3月10日、大変な暴風雨の中を航海して、アフリカから英国へもどる途中、全てのものが失われるかもしれないと見えたとき、ニュートンは、トマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」という本を読みはじめた。ケンピス(1380-1471)は、オランダの修道士で、「日常生活の兄弟会」という修道会に所属していた。その本のメッセージと、海での突然の恐怖に脅えた体験とが、聖霊によって用いられ、ニュートンの心に、漸次的に回心をもたらし、キリストを彼の救い主として個人的に受け入れさせる事となった。

     その後数年間、彼は、できる限り状況を改善しようと努め、彼の船の非情な乗組員たち30人のために、毎週日曜日ごとに公の礼拝をすることによって、自分の仕事を正当化しようとしながら、奴隷船の船長を続けた。しかし、次第に、彼は、この仕事の非人間的罪悪の局面を悟り、強力で目覚ましい奴隷制度撲滅運動家となった。

    ジョン・ニュートンはイングランドにもどり、1750年2月12日に結婚した若い恋人メアリー・カトレットと家庭を持ち、リバプール港の事務員としてその後の9年間を過ごした。この期間に、彼は、福音を説教するようにとの神の召しを次第に強く感じるようになり、奉仕のための学びに精を出すようになった。彼は、ウエスレイ兄弟のほかに、伝道者ジョージ・ホイットフィールドによって、非常に助けられ、影響を受けた。しかし、これら非国教派の人々と協力するよりも、むしろ国教である聖公会内部にとどまることを決めた。

     39歳のとき、ジョン・ニュートンは、聖公会によって任命され、英国はケンブリッジの近くオルニーという小さな村の牧師となった。その後15年間(1764-1779)に、彼は最も実りある影響力の大きな奉仕をした。

    彼がよく語った、彼の以前の生活と、改心の物語とを用いたことは、大変影響力があった。ニュートンは、彼自身の教会での定められた礼拝に加えて、その周辺地域の、確保することの出来た大きな建物において、礼拝をもつことを常とした。その当時の聖公会の牧師のやり方としては 前代未聞であった。彼が説教するところどこにおいても、多くの群衆が、「改心せる老船長」の話しに耳を傾けた。 ニュートンがオルニー教会において採用した他の珍しい習慣は、当時、聖公会で歌われていた「スタンホールド&ホプキンス詩篇集」の落ち着いた詩篇歌を歌うよりも、彼の語る単純で心に触れるメッセージを表現した賛美歌をこのんで歌ったことである。ニュートンは、この目的で使うのにふさわしい賛美歌を十分見出せなくなると、自分自身の賛美歌を書き始めた。彼のこの企てを助けるために、ニュートンは、友人であり、隣人であったウイリアム・クーパーという、当時良く知られた古典文学作家の協力を得た。1779年に、二人の努力が実って、有名な「オルニー賛美歌集」が生み出された。これは、福音賛美歌集の分野において、単独の賛美歌集としては、最も大きな貢献をした。この大がかりな349篇の賛美歌のうち、67篇がクーパーによって書かれ、残りはニュートンの作であった。その賛美歌集の目的は、ニュートンの前書きによれば、「誠実なクリスチャンの信仰と慰めの拡大を願って」であった。

     1947年以後、オルニー教会において、興味深いかつての伝統が復活した。レントの始め聖灰火曜日にもたれる、年一回のパンケーキ・レースです。教会の婦人たちが、町の中央から教会まで、パンケーキをひっくり返しながら競争をするのです。礼拝の時に、会衆が、「おどろくばかりの」や他の有名なオルニー賛美歌を歌う中、勝者が発表されるのです。

     オルニーにおける奉仕を終えて後、ニュートンは、残りの生涯の28年を、ロンドンの有力なセントメリー・ウルノース教会の牧師として過ごした。彼の得た回心者の中には、東インド宣教師となったクラディウス・ブキャナン、聖書注解者トマス・スコットがいる。
    この時期、ニュートンは、ウイリアム・ウイルバーフォースや、他の奴隷売買撲滅運動に携わる政治的リーダーたちと、強固な関係を築いた。興味深いことに、ニュートンの死んだ1807年は、英国議会が、最終的に、その領土から奴隷制度を撤廃した年であった。

     1790年に、40年連れ添ったニュートンの愛妻が癌で死亡した。メアリーは、真の献身と勇気とを持った妻であった。ニュートンは、彼女のいない17年もの長い年月を過ごさねばならなかった。1893年、ジョンとメアリーの遺骨は、オルニー教会の墓地に改葬された。そこに大きなミカゲ石のモニュメントを今なお見ることが出来る。

     82歳で死ぬまで、ニュートンは、彼の生涯をあれほどドラマチックに変えた神のあわれみと恵みとに驚嘆し続けた。これこそ、彼の説教と文章の主要なテーマであった。彼が死ぬ少し前に、教会の代表者は、健康や視力、記憶の衰えから、ニュートンが引退を考えていると示唆した。ニュートンはこれに答えて、「なぜ、老アフリカ冒涜者は、なお話すことが出来るのに、やめるのか?」と言った。また、死を前にした別のときには、メッセージの中で、「私の記憶は、ほとんど失われた。しかし、私は二つのことを覚えている。『私が大いなる罪人であることとキリストが大いなる救い主であること』だ」と引用して、大声で語った。

     疑いもなく、ニュートンの生涯を端的に表わすのは「おどろくばかりの(Amaging Grace)」という賛美歌です。元々、六節からなり、「信仰の回顧と期待(Faith's Review and Expectation)」と題されたこの賛美歌は、Ⅰ歴代誌17:16,17に基づいて作られている。

     多くの賛美歌集には収録されていないニュートンが書いた原歌の後半の三節を直訳すると、以下のとおりです。

    1.主はわれに善を約し給う
       主の御言葉はわが望みの保証なり
    主はわが盾 受くべき分なり
       わが生けるかぎりは
    2.よし この心と身とが衰え
       地上の命が朽ちるとも
    われ幕の内に入りて持たん
       喜びと平和の命を
    3.地は雪の如く消え
       陽はその輝きを失せん されど地にてわれを召し給う神は
       永久にわがものなり

    「おどろくばかりの」のメロディーは、プランテーション(大農場)で歌われた「愛する小羊(Loving Lambs)」と題された初期アメリカの民謡のメロディーで、出版された最も古いものは、1831年、ヴァージニア州ウィンチェスターにおいて、ジェームズ P. キャレルとディヴィッドS. クレイトンによって編集された「ヴァージニア ハーモニー」という歌集に載っている。


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    (以下は前に本誌に掲載したAmazing Grace
    1節の原文と訳です。 ...編集委員追記)

    Amazing grace, how sweet the sound
    That saved a wretch like me
    I once was lost, but now I’m found
    Was blind, but now I see

    驚くべき恵 
      なんと甘美な響きであることか
    その恵みは
    私のような浅ましい者を救った
    私はかつて 失われたものであったが
      今は見いだされている
    (自分の浅ましさが見えない)
    盲目であったが
       今、私は見えている