同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 世に関する神のご計画について (11) —
           結語

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ 3:16)

 表題の「世」は神が愛された世で、人間とその生きている世界です。
 神がその世に対して、人間が滅びないようにするご計画をお立てになったことはあきらかです。神はそれを聖書に明らかにされておられますが、同じ聖書を開きながら異なった見解が展開されています。それで、それぞれの見解を取り上げカルヴィン派とアルミニウス派の論争点を中心に、以下の項目について比較考察してみました。
1.聖定と自由意志に関して
2.全的堕落に関して
3.無条件の選びに関して
4.限定的贖罪に関して
5.不可抗的恩恵に関して
6.聖徒の堅忍に関して
7.聖潔に関して

はじめに紹介しましたように、カルヴィン派の信仰は、ウェストミンスター信仰告白に、ルーテル派の信仰はアウグスブルク信仰告白に集約されていますので、それらを論拠として考察しました。アルミニウス派とウェスレー派(きよめ派)については、一般に知られている事柄で対処しました。そしてアルミニウス派とルーテル派はここで取りあげているテーマについては、ほとんど差がありません。ウェスレー派はきよめ派とも呼ばれているように「聖潔」についてほかの派と見解を異にします。

 カルヴィン派については、強硬な(ハイパーな、極端な)カルヴィン派があり、カルヴィン派の信仰を掲げている多くの方々が、自分は強硬なカルヴィン派ではないと考えています。

 ウェストミンスター信仰告白には、強硬なカルヴィン派の主張点とアルミニウス派の主張点の両方が掲げられているといえます。つまりはじめから矛盾を抱えた信仰告白になっています。その最初の実例は、一方で「神はこの世の進行についてすべてを聖定によって定めておられ、世はすべて神が聖定された通り、不変的に進行する。救われる人は世のはじめから名前もすべて定まっている。それ以外の人は決して救われることがない。自然もすべて神の聖定(第一原因)通りに自然現象は進み聖定されていないことは起きない。」とし、もう一方で「人間は自由であり、強制的に行動させられることはない。自然は偶然のできごとで進行する。人間の自由な行動と、自然の偶然によるできごとは、聖定以外のものである。」と並べて掲げられて、これを第二原因とします。しかし強硬なカルヴィン派のひとびとは、この聖定外の世の進行についても、人間は自由なつもりでも神の定めたことを行っている、神の定めたプログラム通りに生きているロボットと同じであると解釈します。

 世は聖定によって不変に進行していくが、「神は罪の作者ではない」とするので、第二原因とした人間の真の自由を捨てると、たちまち矛盾に陥ります。

 強硬なカルヴィン派のひとびとは、掲げている教理の通りに生きること、つまり、この世の一切のできごとは、死んだ後の世界とは全く無関係であるから、礼拝して何になろう?祈って何になろう?宣教してなになろう?一切は無駄であるからとして、そのようなことは気にせず、行わずに生きることを主張します。

 先に述べたように、自分たちはカルヴィン派であるとしているたいていのひとびとは、礼拝し、祈り、宣教をします。つまりその生き方は、世のすべてのことは聖定によって進行することと第二原因によって進行することの両方を信じていることになります。

 それを明確に表現しているのが、カルヴィン派のエドウィン・H・パーマの解説です。
「これらの人間的見解に比べて、カルヴィニストは二律背反の両者を受け入れる。彼は自分の主張することがおかしいことを知っている。人間がこの二つのデータを調和させることは不可能である。神がすべての起こる事柄を間違いなく確実になさる、と一方で言いながら、人間は自分のすることに対して責任がある、と他方で言うなら、それはナンセンセスである。それはどちらか一方であって、両方であるべきでない。
・・・カルヴィニストは自分の立場が非論理的で、おかしなものであり、ナンセンスで、ばかげたものであることをすすんで認める。」(「カルヴィニズムの五特質」p.172-173;つのぶえ社、1978)

 取りあげている項目について以下の
a.を信じるのが強硬なカルヴィン派、
b.を信じるのが、ウェスレー派を含むアルミニウス派とルーテル派、
a.とb.の両方を信じるのが強硬ではない普通のカルヴィン派と言っていいでしょう。
どれかひとつの項目についてでも、a.だけを信じb.を捨てるなら、強硬なカルヴィン派の主張と同じになります。

1.聖定と自由意志に関して
a.この世のことはすべて神の聖定のとおり(不変に)進行する。
b.人間と天使および動物は自由であり、自然界も神が定められたシステムに従い、偶然の要素をもって進行する。通常神はそれを直接決定し実行させなさるのではなく、摂理によって導いて、ご自分の世に対するご計画を進められる。

2.全的堕落に関して
 どの教派も人間は全的に堕落していて、聖霊の助けなしに、覚醒し、罪を認め、イエス・キリストの贖いに救いがあることを知ることができ、悔い改め、信じて救われることはないとします。
a.神が救いに予定した人だけに聖霊は働かれる。
b.聖霊はすべてのひとに働かれる。それ故すべての人に救いに与る機会がある。

3.無条件の選びに関して
a.神は救いに予定した人々と、滅びに予定した人々を無条件に決めておられる。
b.救いはイエス・キリストを信じるか否かという条件によって決められている。神はすべてのひとを救いに招いておられる。

4.限定的贖罪に関して
a.キリストの贖罪は救いに予定した人々だけのものである。
b.キリストの贖罪はすべてのひとに提供されているものである。贖罪に与るか否かはキリストを信じるか否かにかかっている。

5.不可抗的恩恵に関して
a.あらかじめ救いに予定されたひとは、救いを拒絶することができない。必ず救われてしまう。
b.救いはすべての人に対して提供されていて信仰を条件として恩恵に与るのであるから不可抗の恩寵というものは存在しない。

6.聖徒の堅忍に関して
a.救いに予定された人々は、滅びることがない。
b.ひとたびイエスを信じて救いの恵みに与った人でも、罪を犯し、信仰を捨て、かつ何度でも悔い改める機会があるが、その機会に悔い改め、信仰に帰らなければ滅びる。

7.聖潔に関して
 この項目については、ウェスレー派(きよめ派)を除くすべての教派が a.です。

a.神はイエスを信じ救いにあずかると、罪を赦され義と認められ(義認)、新しく生まれる(新生)恵みを与えられる。そして聖霊が心に住んでくださり、ひとは神の宮となる。それゆえ、救いに与ったひとは、聖霊の故に聖なるものと認められる。しかし、古い人(原罪)がその人に残り、罪の原因となりつづける。新生のいのちは神の前に義、聖、愛に生きようとするため、古いひととの間の葛藤に生き続ける。それで救われたひとは実際にきよいものとなる努力をする。それが身につくことを聖潔という。その結果少しずつ聖潔に前進できるが、死ぬまで全く聖くなることはない。
b.(ウェスレー派は)まず救いの恵みに与りほかの派と同じa.に従って信仰生活をする。しかし、神はそれだけでなく古い人(原罪、罪の性質)に対する救いも備えられた。それがペンテコステの時にイエスを信じた人々に与えられ、以後「聖霊に満たされる」経験として、キリスト者のあいだに受け継がれてきた。それは古い人(罪の性質)がキリストと共に死に(十字架につけられ)、キリストと共に(聖霊に満たされて)生きることである。それが(全き)聖潔(聖化、キリスト者の完全)である。それは全的堕落が起きた際に失われた神のかたちが、キリストのかたちとして私たちに回復することである。その後はa.の葛藤に生きるのではなく、こころにキリストの平和がある聖潔の生涯を生きる。