同労者

キリスト教—信徒の志す—

賛美歌物語

— 聖歌607番「つみとがをにのう」 —

     作詞;ジョセフ・スクリブン(Joseph Scriven)<1819-1886>
     作曲;チャールズ C.コンバース(Charles C. Converse)<1832-1918>
     引照;「滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる。」(箴言 18:24)


<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:賛美歌物語:
(これは、101 HYMN STORY by Kenneth W. Osbeck(KREGEL) の中から、有名な賛美歌を選んで、適宜、翻訳し、週報に連載したものです。)から許可をえて転載。

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    ある人がいみじくも「クリスチャンの実践神学は、賛美歌学である。」と言った。私たちの多くは、この真理を、非常に感動した体験-例えば愛するものを失うと言った体験-や私たちの霊的必要を、聖霊によって用いられたたったひとつの賛美歌が満たしたという体験を思い起こすことで立証することができるだろう。

     そのような賛美歌が「つみとがをにのう」である。それは決して文学的に優れた作品ではないが、その平易に語られる真理は、1857年に作詞されて以来、数え切れないほど多くの神の民に平安と慰めを与えてきた。その歌詞が人々の根本的な霊の必要に、非常に要領を得たものであるので、多くの宣教師が、これを、信仰を持って間もない人々に教える賛美歌の一つであると言う。非常に単純な詩と曲とがその魅力であり力である。

     ジョセフ・スクリブンは1819年、アイルランドのダブリンに住む裕福な両親のもとに生まれた。ダブリンのトリニティーカレッジを卒業し、25歳の時、故国を離れ、カナダに移住する決心をした。彼が、家族と故国を離れた理由は、二つあったようである:彼がプリマス ブレズレンの宗教的影響を受けたため、家族とその生活が疎遠になったことと、彼の婚約者が、結婚式の前夜に、事故により溺死したことである。

     その時から、スクリブンは次第に全く異なる生活様式を身につけるようになった。彼は、山上の垂訓を文字通り受け取った。彼は、彼の限られた所有物を、 すなわち、必要とあれば、彼が着ている衣類ですら、分け与え、助けを必要とする人には、決して援助を惜しまなかったと言われている。サンキー(Ira Sankey)は、その著書の中で、オンタリオ州ポートホープの通りで、のこひき台と鋸を持ているスクリブンを見かけた人が、「あれはだれかね。私のために働いて欲しいのだが」と尋ねると、「君は、彼を雇うことは出来ないよ。彼は、貧しい未亡人や、病気の人たちなど、彼に賃金を支払う事の出来ない人々のためにしか木を切らないんだ。」という答えが返ってきたと記している。このような生活態度の故に、スクリブンは尊敬されたが、彼を知る人々は、変わり者だと思っていた。

     スクリブンは「つみとがをにのう」を発表するつもりは全くなかった。彼の母が重病になり、遠く離れたダブリンの母と共にいることが出来ないので、彼は、慰めの手紙を書き、この詩を同封した。その後しばらくして、今度は彼自身が病気となったとき、彼を見舞った友人が、たまたま、彼のベッドの傍らに、メモ用紙に殴り書きされたその詩を発見した。彼はそれを読み、非常に関心を持ち、スクリブンに、それを書いたのは君かと尋ねた。すると、スクリブンは、いつものようにはにかみながら、「主と私とで、私たちの間で、それを作った。」と答えた。1869年に、彼の小さな詩集が出版された。それは単に、「賛美及びその他の詩」と題されていた。

     ジョセフ・スクリブン自身も事故による溺死を遂げるのであるが、彼の死後、オンタリオ州ポート・ホープの市民たちは、オンタリオ湖からポート・ホープへとのびる、ポート・ホープ=ピーター・バーロウ道の傍らに、この詩と次のような言葉を刻んだ記念碑を建てた。

    《四マイル北のペンガリーの墓地に、博愛主義者であり、1857年ポート・ホープで作られたこの偉大な傑作の作者が眠る》

     この聖歌のメロディーの作曲者コンバース(Charles C. Converse)は高等教育を受けた多才な、成功したクリスチャンで、その才能は、法律から専門的な音楽にまで及んだ。カール・レーデンというペンネームで様々な問題についての学問的論文を書いた。彼は、優れた音楽家であり、作曲家であって、彼の多くの作品が、当時のアメリカを代表するオーケストラや合唱団によって演奏されたが、彼の生涯は、スクリブンの詩によくあったこの簡単なメロディーによって、長く記憶される事になった。サンキーは1875年に、この賛美歌を発見し、彼の有名な「サンキー福音賛美歌第一集」の中に、折よく収録された。後に、サンキーは、「その賛美歌集に、最後に載せることに決めた賛美歌が、最も人気のある賛美歌の一つになった。」と書いた。