同労者

キリスト教—信徒の志す—

信仰良書

   — 神への道(93) —

     D.L.ムーディー著    


<信仰の後退者はキリストをどのように扱ったか>
 もし私たちがキリストを地上の友のように取り扱ったら、私たちは決して彼から去らないでしょう。そして決して信仰の後退者にはならないでしょう。
もしも私がある町に一週間いたらそこでできた友人に握手し、彼らにさようならと言わずに去ることはないでしょう。
私が誰にも一言も言わずに列車に乗って去ったら非難されるべきです。
「いったいどうしたのだ?」と叫ぶでしょう。
 しかしある信仰の後退者が主イエス・キリストを訪ね、彼の私室に入って「さようなら、主イエスよ。私はあなたを、10,20,あるいは30年知っています。しかし私はあなたに仕えることにくたびれました。あなたのくびきは容易ではありません。それにあなたの荷は軽くありません。ですから私は世に、エジプトの肉鍋に戻っていきます。さようなら。主、イエス!お元気で」というのを聞いたことがあったでしょうか?
あなたがたはそれを聞いたことがありましたか?
いいえ。あなた方は決してそれを聞かなかったし、今後も決して聞くことはありません。
 私はあなた方に言います。もしもあなた方が自分の私室に入り、戸を閉じて主と交わりを保つなら、あなた方は彼のもとを去ることができません。
あなた方の心の声はこうです。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」(ヨハネ 6:68)
あなた方がそのような方法で彼に対処するなら世に帰って行くことはできません。
それなのにあなた方は彼のもとから走り去りました。
あなた方が彼を忘れた日々は数えきれません。
今日彼のもとに帰りなさい。そのままのあなたで!
神が救いの喜びによってあなた方を回復なさるまで、あなた方のこころを休ませることのないようにあなた方のこころを奮い立たせなさい。
コーンウォールに住むある紳士が、かつてその通りで信仰の後退者であると彼が知っているあるキリスト者に会いました。
彼はそのひとのところに行き、言いました。「あなたと主、イエスとの間を引き離すものはなにもないのではありませんか?私に教えてください。」
その人はうなだれて、言いました。「その通り」
その紳士はいいました。「では、主はあなたになにをしてくれたのですか?」
その答えは溢れる涙でした。
 黙示録2:4-5に私たちは読みます。「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」
私はあるひとびとが「最初したことをまたしなさい」とうながす誤りについて皆さんに警告したい。
 多くのひとびとが、そうすることによってまた同じ経験ができると思っています。
そのため何千もの人々がいつまでも平安なく過ごしています。なぜなら彼らは最初の経験の更新を待ち続けているからです。
あなた方は主のもとにはじめて帰ったと同じ経験をすることは決してできないでしょう。
神はご自身で繰り返すことをなさいません。
地上の何百万のなかに二人のおなじ人は決していません。似ているか似ていると思うだけです。 あなたがたは二人のひとを区別できないと言うかも知れません。しかし彼らと親しくなったとき、すぐに彼らの違いを見分けられるようになります。
同様に同じ経験を二回する人はひとりもいません。
もしも神が神の喜びをあなた方の魂に回復なさったとするならそれは神の方法を持いてなされたのです。
神があなた方を祝福される道を見いだし損ねませんように。
同じ経験を期待してはいけません。二年後あるいは二十年後にも。
あなた方は新たな経験をするでしょう。そして神はご自身の方法であなた方をお取り扱いになります。
もしあなたが方が、神の命じられた道からさまよい出た自分の罪を告白するなら、神は神の救いの喜びをあなた方に回復されるでしょう

<ペテロの転落>
 私はペテロが陥った振る舞いについて皆さんの注意を呼び覚ましたいとおもいます。それはほとんどすべてのひとが同じ道で失敗すると思うからです。
倒れていないひとびとへの警告の覚え書きを列挙したいと思います。
「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(コリントⅠ 10:13)
25年前-そして私が救われて5年経った時-私が20年間倒れずに立っていられたら、私が倒れる心配はないといつも思っていました。
しかしあなた方が十字架の戦いの恐ろしさに近づきました。
サタンは高いものを狙います。
彼は12使徒の間にいって、イスカリオテのユダと使徒たちの頭ペテロを選び出しました。
倒れた最も重要な人は、その品性の面で最強の人でした。
最も険しい岩の上に建てられ、衛兵に警護されているエジンバラ城で、暗殺に成功するのは側にいる人だけであると私は言っているのです。
もし誰かが悪魔にたいしていかなる点についても十分強く対抗できると思っているなら、それについて格別に誘惑するものがやってくると特に警戒が必要です。
アブラハムは信仰の家族の頭として立っています。そして子どもたちの信仰はアブラハムの家系を嗣いでいると言ったかも知れません。アブラハムはエジプトに降っていったとき、自分の妻を妻ではないと言いました。(創世記 12章)
モーセは柔和な人であったと記録されています。しかし彼の軽率な行為とことばのために約束の地に入れませんでした。
そのとき神は岩に「命じなさい」と言われましたが、彼はそれを「打って」会衆に水を飲ませました。
「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」(民数記 20:10)

<エリヤの臆病>
 エリヤは大胆さで著名でした。けれども臆病者のように荒野を一日路行き、レダマの木下に座り死にたいと言いました、一婦人のメッセージを受け取ったために。
私たちは注意深くしましょう。
その人が誰であっても・・・彼は説教者かも知れません・・・問題でありません。もしも彼がうぬぼれていたら必ず転落します。
キリストに従う私たちは遜って祈り、謙りを保たなければなりません。
神はモーセの顔を他の人々がそれを見ることができるように光らせました。しかしモーセは自分で知っていました。彼の顔が自分で光っているのではないことを。人は潔くなればなるほど日々の生活と会話にそれが現れます。
ある人々は彼らが遜っていると語ります。しかし、もし彼らが真に遜っているならそれを公にする必用はありません。
それは不必要です。
灯台は時間毎に太鼓を打ち鳴らすこともトランペットを吹くことも必用ではありません。灯台はそれ自身で証明します。 同様に私たちは真の光を私たち自身が示します。
最も敬虔なひとが最も騒音を発することはありません。
小川とかスコットランド人がそう呼ぶ小さいな「細流」が、私たちの住んでいるところからあまり遠くないところにあります。激しい雨の後に皆さんは遠くまでひびく逆巻く水の音を聞くことができます。しかし、晴れた天気の日が数日続くと小川は全く静かに戻ります。
しかし私の家の近くに川があり、一年中深い荘厳な流路を流れていますが、その音を生活している間決して聞くことがありません。
私たちは自分自身の内に神の愛をたくさん持っているなら、その事実を大声で宣伝しなくても明らかになるでしょう。