同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— いのちの水の川 —


「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ 17:37-39)

 エゼキエルの見た異象の、神殿から流れ出る川や、黙示録の新しいエルサレムの神殿から流れ出るいのちの水の川については皆さんもよくご存じでしょう。
 創世記2章に書かれているエデンの園から流れ出る川にも「いのちの水の川」を連想するひとがいます。

「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。・・・私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。・・・川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」(エゼキエル書 47:1-5,7-9,12)

「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」(黙示録 22:1-2)

「一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。」(創世記 2:10-14)
創世記2章のエデンから流れ出る川の名前の意味は、
ピション    満ちあふれる
ギホン     流出する
ティグリス   急流
ユーフラテス  甘美
だそうです。
米田豊はこれを聖霊の特性と生涯を示すものであって、ひとは神に服従しその戒めを守っていたなら、神の安息といのちの氾濫(川)と愛の交流の生涯ができたのであったと解説しています。

 エゼキエルの見た川は、神殿に主の栄光が東側の入り口からかえってこられ、誰も東側の入り口から出入りしてはならないと命じられていますが、神殿から流れ出るいのちの水の川はその東側に向かって流れています。