聖書研究
— 救いについて(38) —
野澤 睦雄
「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」(創世記 4:25-26)
3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎
<祈り>
祈りについてまず祈った人々の実例を取り上げてきました。
祈りは救われて「新生」の恵みに与ったひとのこころに与えられる機能であって、新生していない人は真の祈りをすることができません。
祈りは聖書全巻に記されているテーマです。冒頭のみことばに、アダムの子、セツに子どもが生まれたとき、神はご自身をエホバ(ヤハウェ)という名であることを示されましたが、後にその名に代えて「主」というようになりました。それで「人々は主の御名によって祈ることを始めた。」と表現されています。
祈りは人類誕生の初期から、神と交わり、神に願い事を告げる道となりました。人間を救うとともに、祈ることができるようにし、
「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
(テサロニケⅠ5:16-18)
「絶えず祈りなさい。」と神は言われて、私たちが祈ることを望んでおられることを示しておられます。
強調しますが、私たちが祈ることを「神が望んでおられます。」
その理由は、神はひとの祈りを通してご自身のみ業を進められるからです。祈る人がいなくなると神のみ業は進まなくなります。ことにいまだ救われていないひとを救う業にそれがあらわされます。
きよめ派の皆さんは「聖潔」(潔め)ということに関心をおもちでしょう。ジョン・ウェスレイはこう述べています。
「常に喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝する。これが(キリスト者の)完全である。」
まともなキリスト者であったなら、常に喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝することに反対するひとはいません。
潔めの恵みに与りたい方々はまず「祈る」ことから始めるとよいでしょう。