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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-152 —
   -- 2024年1月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅰ 22章
 22章後半はその時代の王たちがどのような生き様を残したのかが書かれている。前半はアハブの死に至るまでが記されており、そこには身動きの取れなくなっている人間の姿が描き出されている。人間が自由に自分の意思で生きているにもかかわらず、本当に願っているようにはできず、その行いのゆえに反対に自由から遠ざかり、身動きが取れないその姿が筆者によって描かれているのだ。神の御旨に生きるからこそ、自らを混乱から解放していくことができると筆者は示している。本来はそのように生きることで神が与えてくださる最善を私たちは歩むことができるのだ。神の御旨を完全に理解することはできないが、導きの中に歩むときに本当に行くべき道を選び取っていくことができ、それがそれぞれに神の導かれる最善へと至るのである。そうでなければ人の知恵も力も権威も、無秩序に成り立っていかないものになるのだ。
アハブがイスラエルを治めていた時代に3年間、その平穏が守られている時があった。そのまま、平穏を生きればよかったのにもかかわらず、アハブはヨシャパテと共にラモテ・ギルアデを取り戻そうとあえて戦いを引き起こし、そこに繰り出していくことになる。南ユダの王ヨシャパテはそのためにアハブに声を掛けられ、この招待に応じたのだ。本来、イスラエルもユダも同じ神の民が生きる一つの共同体であった。しかし、その二つはソロモンの時代にそれぞれが国として分裂してしまったのだ。一面この二人が手を組もうとしたのもそのような分裂した状態から関係を取り戻し、一つの国へと結びつこうという思いもあったのだろうが、それは正しい方法で行われなかった。ヨシャパテはよく現在の状況や、互いの状態、安全性など、多くの情報を加味したうえで協力するべきか御心を探り求めなければならなかった。しかし、彼はそのようなことを確かめもせず、ただただ理想と正論によって自国が進むべき道を決めてしまった。その状況を第三者として私たちが客観的に見るならばいかにも自分の思いを優先している姿がそこにある。読者は、アハブがどのような王だったかを知っている。以前取り上げたが彼は自分がやりたいことのためにその権力を私的に行使し、ナボテという人物を殺害した。そのようなことをヨシャパテは知らないわけがなかっただろう。だからこそ、そのような神の正義に反することを平気で行う人物とは容易に手を組まずに、自らにとって大切な神の民を守っていく必要があった。しかし、彼はそのようにせず、むしろ、友好関係を結ぶまでに至っている。ヨシャパテ自身が対イスラエルとの外交の中で本来とるべき行動ができず、結局は身動きが取れなくなっていた事実がこの章を見るときに明らかである。その結果、彼は善王であったにもかかわらず最終的に命からがら敵の前から逃げていかなければならなかったのである。
これまで取り上げたように、アハブに対して神の憐れみは豊かであったことを私たちは知っている。ナボテの畑地を命とともに奪っておきながら、彼は憐みによって赦された。ただそれでも彼は根本的に変わらなかったのだ。私たちは神の憐れみの先を見て、感情的にそれはおかしいと思ってしまう時がある。今回のアハブのように、ナボテという人の命を奪っておきながら、一見簡単に赦されてしまう姿を見ると納得いかないのだ。しかし、それは私たちの信仰の脆弱さゆえなのであり、感情に信仰が支配されているからである。本来はそれらを治め、神の御心を探っていく必要があるのだ。そうでなければ、私たちも感情に足を取られ身動きが取れなくなってしまう。
この章に他に登場してくる者たちの姿も同時に見ていきたいと思う。神の預言者400人はどうだっただろうか。彼らも本来の預言者としての立場、責任を放棄している姿が描き出されている。彼らはアハブの思うように預言し、彼のやりたいことを後押しするような役割を果たしていた。神の御言葉を伝えるものとして、アハブと対峙しなければならないにもかかわらず、彼らはアハブがイエスと言ったらイエス、ノーと言ったらノーということしかできず、本来の役割を全く果たせていなかったのだ。そのうえミカヤのもとに遣わされた使いまでもが、ほかの400人の預言者と同じように伝えてほしいとまで言うほど、神の言葉を伝えるという働きが正しく行われず、形ばかりのものになっている姿が示されている。
また、そのこれまで正しく神の言葉を伝えていたミカヤですらも、普段と異なる様子を見せている。彼の本来の役割はアハブが戦いに出ないようにと預言することであった。しかし、彼が伝えたのは「攻め上りなさい」という言葉である。彼もまた、自らの感情にとらわれ、するべき働きを全うすることなく、このように語ったのだ。ここで面白いのは本来なら、満場一致で戦いに行きなさいと言われているならば、納得するだろうと思われていた、アハブがミカヤに文句をいっている場面である。思い通りに語られているからよいのではないかと思うがアハブは、このミカヤの姿に、いつもとは違う何かを見出しそれを指摘しているのだ。それによって彼は本来語るべきだった神の言葉を伝えていくことになる。ミカヤはこの一連のことが、神の御手の中で行われ、その最終的に到達するところは滅びであることを預言した。このような内容が語られたのであれば、彼らは踏みとどまるべきであった。ヨシャパテに関して述べるならわざわざ、あえてミカヤを呼び寄せたのだ。そこでこれだけの話がなされたのなら戦いを止めるというのが本来の選択だろう。しかし、物事がすでに動き始めていたゆえに神の御旨によるストップがかかっても結局、彼らは戦いに行くことを止められなかったのだ。アハブもそこまで聞いたのならいっそ「やめよう」と神の警告を受入れ中止を宣言すればよかった。しかし、そうするのではなく、むしろ「そうだ、王という立場を隠して、一兵卒のようにすればよい。そうすれば、死を免れるだろう」とまるで良いことを思いついたかのように安易な手を講じるようになる。しかし反対にそれが大いなるあだとなった。彼は「イスラエルの王」という立場ゆえに、神からの憐れみを受けられていた事実がある。にもかかわらず、彼はこの時、その立場を捨ててしまった。それゆえに、「一兵卒が、たまたま敵の打った矢に当たって死ぬ」という最後を迎えることになるのである。
この書を読めば読むほど、彼らが自らの思いにとらわれ、その結果逆に身動きが取れなくなり、滅びへと向かっていることがわかる。それは最初に取り上げたように、彼らの歩みの中から、神の御旨を探り求めるということがなくなってしまったゆえである。確かに、その御心、御旨をとらえ実行していくことは簡単ではない。しかし、心からそう願い信仰によって歩むならば、私たちはその道を選び取っていくことができる。なお、今日の学びを通し、日々の生活の中でどう歩むべきかを探り求め、神の与えようとされる最善をその愛と恵みの中で見出していきたく願う。

Q:16節でアハブがミカヤの語った言葉が、本来告げるべきことではないと気付いたのはなぜですか。

A:それは確かに不思議なことである。アハブは好き嫌いで預言者を近くに置いているという事実がある。そしてそれは彼自身もよく理解している。だからこそ400人はイエスマンで彼の思うように告げてくれるという人物だけがその場にいるのだ。とはいえ、私たちはアハブの全貌を読者として理解しているわけではない。アハブが様々な要素を持っていたことは事実である。自分の思い通りをしたいなら何も聞かずそうすればよいのに、彼はわざわざイエスマンを置いて預言させることで神がアハブのしようとしていることを是認してくれると思いたかったのだ。彼の中には神という存在と、その力、その御旨に沿って歩むことこそ正しいことである、そこに歩むべきだという教えは確かに存在していた。ただ、知っていてもそれを歩むということができていなかった。これは言葉にするほど簡単なものではない。真理を知って正解を答えることはできるが、それを生きるのは決して簡単ではない。ミカヤは彼の前に真理を告げている。それを自覚しているのだ。ただ、神の真理とアハブは一致しない。神に栄光を帰するよりも自分の栄光を求めたいというのが彼の欲求なのである。だからこそ、彼はいつまでたっても神の主権の中であっても真実に歩むことができないのだ。
神の権威を理解するということは大切なことである。飛躍するが自分の思い通りになる牧師ではなく、そうではない牧師を選び取れるかというのと同じように、それこそ、神の御心に至ることができる重要な部分なのである。そうでなければ、結局アハブのように自分の生きたいように生きて、身動きが取れないようになってしまうのである。
私たちは自らを客観的に見ることは難しいが、近くにいるものを見れば、本当の意味で「身動きが取れない」という状況を理解することができるだろう。もちろん他人事ではいけない。反面教師的に、自らにもあるその要素を見出していかに是正を加えて行けるかである。
身動きができないという事態は最初、手足は動く状況から始まる。そこからだんだんと雁字搦めにされて動かなくなってくるのだ。そしてわかっているのに、できない、ならない。という状況がどんどんと生まれてくる。それは聖書で言うところの刈り取りという境地なのである。
真理ということを何度も語っているが、これは知ることができても、できるかどうかによって大いに変わるのだ。その中に早く自らを生かしていけるようになる必要がある。そうでなければ、できないという状況が私たちに襲い掛かってくる。だからこそ私たちは、そのようなものと背中合わせであることをよく理解し主の助けを遜って求めるのである。自由が許されているような時代に信仰生活に不要なものを捨てるぐらい潔ければよいが、中途半端にその中に生きていると動きたくても動けない、したいのにできないという虚しさを抱えなければならなくなる。それは信仰者にとって大変厄介なものとして残り続けるのである。

Q:先日の礼拝の中で、神の祝福を共に喜び互いに仕えあうということが語られていました。また、間違った考え方に気づき、改善すること、危ういものから遠ざかるということが語られていました。私も生きている中で、あぁこれは危険だと自らのセンサーに引っかかるものがあり、注意していかなければならないと思わされたのですが、それを愛する者にどのように伝えていったらよいのでしょうか。

A:私はそのようなものを判断するというセンサー、感覚というよりも、「崖から遠くに自らを置く」ということを大切にする必要があると伝え教えている。私たちに与えられているのはどこにでも行けるという権利である。崖の下をのぞけるそのスリルを味わえる「がけっぷち」にいることも、下は見えないが、安全な崖から遠く離れた道にいることもできるのだ。しかし、世の中ではスリルを味わうことを勧めて、安全圏にいることを面白くないと否定してくることがある。確かに、崖から離れた道は一見面白味に欠ける平凡さをもっている。しかし、面白みは全くないのかというと実はそうではない。思いがけないところで道端に花を見つける時もある。それこそが神の祝福なのである。私たちはスリルを味わうこと、崖の下をのぞくことに楽しみを見出すのではなく、神の見せてくださる一輪の花を楽しむ方がよいと語られているのである。世の中の人は崖の下をのぞくことを好み、その末にぎりぎりで生きられる人もいるが、落ちて一向に上ることができない人がいることも私たちは知っている。私たちは特に、愛する存在を守るために、自らを崖から遠ざけ、「わたしより崖側に行ってはいけない」と伝えている。もちろんそれでも遠ざけられればさらに近づこうと、私たちの身を乗り越えてでも崖側に行こうとする者たちもいる。それをいかにして食い止めていくかがカギになる。だからこそ、私たちも自らを神にゆだねて正しく生きようとしていけるか、神の御力を信じ畏れてなおも慎重に歩むことができるかが求められているのである。少し頭の良い人なら、これまでの話を理屈的に理解することはできる。しかし神の力の中で生きるという霊的な部分を理解することができない。本当に必要なのは、この霊的な部分である。それがなく、理屈だけでは最終的に実行するに至らないものになりがちである。私たちは理屈で行うのではなく、神に信頼することによって、これらの事柄を推し進めていけるものとなりたく願う。

Q:主の目にかなうことを行い続けたヨシャパテであっても身動きが取れなくなってしまったのはなぜですか。

A:イスラエルを統一したいということに捕らわれ続けてしまったのである。ここで注意しておきたいのは、この道を行くべきではないという思いで神の御旨から外れてしまうのではなく、こうしたい、こうなった方がよいのではないかという思いの中でこのような状況が生み出されてしまうことがあるという点である。王国を統一するとはいかにも真っ当な願いであるように思える。しかし、それが、神の御旨からそれてしまっていては、本来の意味をなさないのである。そして「わたしの将来の夢は王国を統一することです」なんて言ったがゆえに引き下がれないというような状況が起こってくる時がある。だからこそ自分の目指す思いと歩んでいるうちに神が引き止められている事実が見えてきたときに、どこで引き返すかということが重要なのである。
善王だからと言って100パーセントそうではない。その中に不足ももちろんある。だからこそ、その中で私たちもどのように生きるべきかを学ぶのである。

Q:昨年の聖書を学ぶ会の中で「祈りは声を出して行うものである」と語られましたが、私はそのように祈る際にある兄弟の病の回復を祈っているうちにだんだんと自らのための祈りに代わっていることに気が付きました。それはどのように捉えていくべきでしょうか。

A:本来それが祈りである。もちろん自らの祈りの姿勢に対して悩む必要や考える必要はある。ただ、神に自らの思いを知っていただくことが神への祈りである。誰かのために祈るゆえに更に導かれる神の祝福なのだ。それによって自らの中にある様々な問題、課題を祈ることができるのだ。ただ、お題目のように祈るのではなく、その中で神が私たちに示されておられるものを感じ、神との間に語らいがなされる必要があるのだ。兄弟のことを祈ったからこそ、神があなたの兄弟に対する愛に応えて、あなたの中にある問題を示され、そこに改善がなされた方がよいと語ってくださっているのである。
祈りの際に「言葉に出す」のは若い時はほかのことを考えないようにするために行い、歳を取ってからは眠り込んでしまわないために行うのだ。早いうちに手を打たないとあっという間に生涯のうちで物事を深めないまま過ぎていってしまう。何事も積み重ねが必要になってくるのだ。
説教を聞くというのはなかなか大変なことである。私たちの教会では年末年始と夏に休みがある。たった一週間休んだだけでも、先日、休み明けの礼拝はメッセージに集中できない様子が見られていた。霊的体力は意外と簡単に衰えてしまう。リモートというのはよさそうに見えて、そのような点が衰えてしまう。霊的息吹というものは本当に集中して礼拝に挑まないと触れられない。だからこそ、自分だけでなく、子どもの体調にも気を付けていかなければならない。もちろんしょうがないものであると私も理解している。しかし、子どもの体調不良で礼拝に来られないということのゆえに起こってくる損失は大きいことも理解していかなければならない。あなたは今、盛りの時期である。ある程度の時間が確保できる中で、どのようにその時間を生産性のある時間へとしてくのか、それとも、自分の好きなことへの時間にしてしまうかをそのような中でよく考えていかなければならない。それこそが、祝福への大きな一手になるのだ。

Q:最近家族が増えて、子どもたちの自己主張もでてくるなかで、家族にも相性があるのだと感じる部分があります。そのことに思いを巡らせると、子どもの時代に相性があることを感じてはいましたが、そこまで気にしていませんでしたが今、大人になってうまくいかないことが出てきていることを感じます。ただ一方でそのようなことを「相性」と一括りにしてしまってよいか悩んでいます。家族は神様が備えてくださったのだからということもあるからこそ、私はどうするべきかと思うのですが、どうとらえ、どのようにしていくべきでしょうか。

A:愛称は確かに大きな存在としてある。だからこそ最善を願っていくべきではある。家族の中にはそれぞれの思いの中で大いに綱引きがなされている。自分がやりたいことをやろうと思いを主張すれば、それは周りの人の綱を引く行為である。自分が頑張っているからこそバランスが取れていないと感じるなら力を抜いていくべきだ。大変抽象的な話だが、関係が近く相手を分かっているからこそ、それに対処をしていく必要があるとあなたも感じているのだろう。「相性なんだから仕方がない」という部分はあるが、どうにもならないものではない。気が付いたのなら積極的に改善していこうと取り組むべきである。そうでなければ、本来保留にしてはいけないものだから、わからないと思い込んでその様にしてしまうことにつながる可能性がある。私たちの家庭では今、母親と末の娘がバチバチやっている。娘の言葉が正当であっても、母親は単純に受け入れることができるかというとそうではない。だからこそ、私は自分のこととして「私は衰えていて、誰かの言葉を聞いていかなければならないと思うのだ」と語ることで妻に伝えている。妻の方はそのような考えが背後にあって私が自分の話をしているということを察して丸く収めようと自分の思いを納得させるだけの知恵もある。そのようなコミュニケーションの中でお互いが相手を尊重し、意識し、関係をより良い形で維持していくことが大切なのである。
相性は確かにある。私と父の相性は悪かった。ただ、互いに愛し合うことを意識していたと感じている。その恩恵は父から私への牧師の代替えがスムーズに確かに行われたことに現れている。恩恵はどこに現れるかわからない。私たちは贖いの魂を願っている。愛する者が贖われ、イエス・キリストに従い、自らの十字架を負って歩むことができるようになるためには何をしていったらよいのだろうか。私たちに示されている道を億劫がったり、こんなものでいいかと蔑ろにしてしまうのではなく、取り組み続けていく必要があるのだ。

Q:先週の日曜日のメッセージの中でヨハネの手紙の最後の章の終わりが「子どもたちよ偶像を警戒しなさい」というところで終わっていました。今日のところも「イスラエルの神、主の怒りを引き起こした」というところで終わっていました。今、偶像について私たちもまた警戒することが語られていると感じているのですが、偶像について先生はどのようにお考えですか。

A:偶像は人間が最も陥りやすい罪であり、いつまでも捕らわれやすいものである。神のご意思を聞くという姿勢は、唯一真の神を拝して頭をたれて従うということのゆえに至る。しかし、それができないからこそ、偶像という自分の意思を優先できる自らの宗教を作ってしまうのである。自我を捨てられないという心が、偶像礼拝に至るのである。アハブが神の憐れみを与えられていたのにもかかわらず、自我という偶像を捨てられなかった。だからこそ初めはバアルを礼拝し、それが、神の前に砕かれると今度は、エホバの神の預言者400人を自分の意のままに操ることで偶像とした。結局は私たちの自我を捨てて、神のご意思に全く服従するかが最終的に重要なのである。 あなたにとって結婚は「これは神のご意思です」という伝道師の言葉に従ったゆえに至ったところだったことを私は幸いとしている。状況的には奥さんの方にまず「あなたはこの結婚が神のご意思であることを信じて歩みますか」と聞いて「Yes」と言わせてからあなたに聞くこととなった。まるで「NO」とは言わせないような状況であったことは事実あるが、それでも、あなたがやめようと思えば「No」と言えたし、下手をすると、私たちが帰ってから、それをひっくり返すということもできた。しかし、そうしなかったのは、あなたの確かな信仰であり、愛があったからである。あなたはその信仰と愛のゆえに結婚に至ったことを私も幸いに思っている。

Q:礼拝の中で知っていることと自らのものになっているということは別であると語られましたが、そう勘違いしてしまうことがやはりあると思います。どのように注意していくことや意識が必要ですか。

A:あなたが自らの家庭が機能するための役割をきちんと果たしているのかどうかを見ていくと、注意が行き届くようになり実際に行われるようになる。知っていても、何もしなければ思うようにはならない。ことは動かさなければならない。動いても成功しないのは、その方法に問題があるのである。だからこそ、誰かとどうしていくべきかと話していく必要がある。私の場合は妻とよく話をした。成功や完成を目指していく必要がある。知っていてもできなければしょうがないというぐらい評価の基準を設けていかなければならない。あなたの長男はまだ幼いがその中に様々な可能性を秘めていると感じる部分がある。彼の感性は特別な賜物である。だからこそ、それを何らかの形で育み、ふさわしい実行に結び付けていくとよいと感じる。父親の子に対する愛と信仰は子供の特性を捉え、心の成長とその将来に結びつけることにある。長男が育てばその姿を見て次男はついてくる。だからこそ、長男に十分にまずかかわっていくとよいと感じる。

Q:先ほど偶像の話がでてきましたが先日、本を読み偶像に閉じこもった人を救いに導くためにはどのようにしたら良いのかと考えさせられました。「ここまで来たら私はクリスチャンにはなれません」という人がいたそうです。どのような言葉をかければよいのでしょうか。

A:それは難しいことだ。相手との距離が変わらない、関係性が悪くならないなら時間を置いて好機を待つのもよいかもしれない。押してダメなら引いてみたらよいのではないかと思う。祈りなさいという人もいるし、聖書を持ち出して、神はそんなあなたを救おうとしているという人もいる。出所は本だが、実際の人格が目の前にいたら、また違うかもしれない。ただ、思い続けていることは必要であると感じる。自分の親がまだ救われていないという人もいるだろう。私の母もそうで、結果的に救いに導くことはできなかった。だからと言って、その人の心の営みまではわからない。どこかで悔い改めて立ち返っていたかもしれない。考えて備えておく分には良いだろう。結婚して子どもが与えられれば、導こうと願う相手ができる。私だったらどうするか、何を手札として持っておくか、色々なことが考えられる。限られた時間の中であなたの信仰を豊かに築いて行って、良き福音の器となっていただきたい。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)