同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 潔められて —

石井 行雄


「怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。・・・神の聖霊を悲しませてはいけません。」 (エペソ 4:26,30)

私たちの教会では新年の祈祷会で、この年に与えられた聖句、祈りの課題、目標等を紙に書いて提出し、牧師に祈って頂くということを、長年続けてきました。
冒頭の聖句は、昨年私に与えられた聖句で、この聖句を信じて潔めの信仰に立ちたいと書いて提出しました。
これまでも何度か潔めを与えられたいと書いてはいたのですが、漠然として棚上げというような状態でここまできました。クリスチャンホームに生まれ育ち、高校3年の時に洗礼を受けましたが、霊的経験である救いの時、潔めの時があるということを知ったのは大学2年生の頃だったと思います。24歳の時に救われて、次は潔めということで、聖別会に出席し、潔めに関する信仰書を読んだりしたのですが、知識は多くなる一方で、私の様な信仰が薄く、粗雑な者には、とてもとても届かない遠いことのようにも思いました。
このままで終わってしまうのだろうかと思った時もありました。救いは過去の罪を告白し、イエス・キリストの贖罪を信じることですが、潔められた方の証を聞くと、人によって違いがあり、潔めは多くの型があることが分かりました。
神に全てを献げる献身の証が多いのですが、罪の性質、傾向、根を除き去ると証しする方もおりました。
昨年の初めの頃、講壇から「主は我が礎」と題して、マタイの福音書より「大切なことは知ることではなく、信じて従うこと」と語られました。このことに促され、もう一度自分の心を見つめ、過去の罪を振り返りました。私の心に強く思ったことは、怒りをいつまでも持ち続けていることから来る罪です。この弱さを聖霊によって守られ、解放されることが私の潔めと信じ、山本先生に祈って頂き、潔めの信仰に立ちました。
救われてから潔められるまで長い年月がかかりました。これから求めることは、御霊の実「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ書5:22、23)」を結ぶことです。幸いにも、今年2回目の礼拝説教を伺い、いつも以上に教会の兄弟姉妹と共に生き、働きたいという思いを強くしました。 遜って共に進み、励んで行きたいと思います。

(仙台聖泉キリスト教会会員)