同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 聖霊を受けなさい —


「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」」(ヨハネ 20:22-23)

 今年の教会暦では5月20日(日)がペンテコステに当たっていました。ペンテコステはイエスが約束された「助け主、聖霊」が、おいでになった最初の日であることは歴然です。イエスのご降誕を記念し、十字架と復活を記念するのと同様に聖霊が降られたことを記念することは、私たちにとって相応しいことです。
 今回は次の三項目について考えましょう。
・イエスと聖霊
・弟子たちと聖霊
・私たちと聖霊

<イエスと聖霊>
 私たちは、イエスは「真の人」であると強調しますが、真の人とは私たちと何も変わらない「普通の人」だということです。普通の人というと違和感を覚えるでしょうけれども真の人間だという限りそうなのです。そこが違ったら人間でなくなります。
 けれども、イエスは並外れた「力ある人」でした。エルサレムからエマオへの行こうとしていた二人の弟子は、イエスのことをこういいました。・・ふたりは答えた。
「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。・・」 (ルカ 24:19)

 普通の人イエスが力ある人であった理由はただひとつ、聖霊がイエスの内にあって働かれたからです。
 イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けたときの光景がこのように記されています。
「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」 (マタイ 3:16 )

 荒野でサタンの誘惑にあわれたことから始まって、イエスの全生涯は聖霊に導かれたものでした。イエスは普通の人ですから、何かを行う前に「祈ることによって」その成功を獲得したのです。
「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。・・イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ 4:14-21)

 ルカの福音書11章13節、「あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」とイエスが語られたその後に、イエスの力ある働きはどこからきているのか、パリサイ人たちと議論しておられます。イエスは、自分の業は聖霊によるのだとことをこう表現しています。
「しかし、わたしが、神の指(聖霊)によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」(ルカ 11:20)
 イエスは「真の人」私たちと変わらない人であったこと、聖霊がイエスの内にあって、働かれたことを記憶してください。

<弟子たちと聖霊>
 イエスの弟子たちの多くは、バプテスマのヨハネに洗礼を受けた、ヨハネの弟子たちでした。彼らはイエスを信じ、救いの恵みに与った人々であったことは明らかですが、福音書に記されている彼らの言動が示す彼らの品性は、いかに貧弱なものであったことでしょう。
 イエスの死後、彼らはイエスを迫害した人々を恐れていました。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった。」(ヨハネ 20:19)
そのような弟子たちに、イエスはご自分が復活されたことを示し、冒頭に掲げたみことばを語られました。
「聖霊を受けなさい。」
それこそが弟子たちに必要なことでした。
 彼らは復活されたイエスに会い、イエスが復活されたことを知り、イエスにあなた方を派遣すると言われました。
・・イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」・・(ヨハネ 20:21)
 しかし、彼らには、ユダヤ人に立ち向かうような、勇気も力もありませんでした。
彼らは、自分の育った田舎に帰っていきました。そして、
・・・シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」
・・・(ヨハネ 21:2-3)
そこは、イエスから
「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
(マタイ 4:19)と言われたところでしたが、彼らにはそれを使命として果たす気力がありませんでした。
 ペンテコステの日、「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒 2:1-4)

弟子たちは「聖霊に満たされました。」
付け加えますが、ここに「他国のことばで話し出した」とあることは、異言と呼ばれています。今の時代にあっては、神が誰にどのような恵みを下さるか決めることはできませんが、この異言はペンテコステとその暫く後まで、聖霊がおいでになった徴となりましたが、パウロはそれを求めるべきものとしていません。そして、
「預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。」(コリントⅠ 13:8)
と、やがて異言は語られなくなることを宣言しています。
大切なことは、徴を見なくても「聖霊に満たされる」ことです。
 聖霊に満たされた弟子たちは、なんと素晴らしい「力ある人」となったことでしょう。ペテロの説教には力がありました。
・・・人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」・・・(使徒 2:37-39)
彼らはイエスの派遣に応えて世界に出て行き、迫害も死も恐れず、授けられた使命を果たしました。

<私たちと聖霊>
 私たちについては、約束されているものを示すだけにとどめます。
「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」(コリントⅡ 3:17)
「御霊による思いは、いのちと平安です。」
(ローマ 8:6)イエスが約束された平安(ヨハネ 14:27)は聖霊によってもたらされます。
「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(コリントⅠ 4:20) 私たちの信仰に力を与えるお方は聖霊です。
救いもきよめも品性も様々な賜物も、私たちに与えられるすべての善いものは聖霊によって与えられます。
 自分は、ペンテコステ前の弟子たちのようであると思うなら、答えはただひとつ。「聖霊を受けなさい。」