同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 真の人であり真の神であるイエス —


「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。』」(ヨハネ 8:58)

 かつて私が持っていたイエス観は、<半分人で半分神であるお方であった>と、このコラムで繰り返し述べ、皆さんが今もっておられるイエス観もそうなのではありませんか?と何度も問いかけました。自分はイエスをどのように信じているか、真剣に考察していただけたでしょうか?

 私は、イエスは「真の人」であると信じるにいたったので、それも繰り返し述べてきました。

 今回強調したいことは、イエスは「真の人」であると同時に「真の神」であることです。それは決して「半分人で半分神」なのではありません。「完全な人で完全な神」です。

 人間は「霊」「たましい」「からだ」の三要素によって構成されています。このことを最も明快に述べている聖書記事は、
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(テサロニケⅠ 5:23)
です。

 人間が生まれてくるのは、男女の性の交わりを通してあることは歴然で、それは肉体つまり物質の世界のことであるように感じていました。しかし、生まれてくる子どもは霊もたましいも持っているのであるので、一体それはどこから来るのか?と、私は興味深く感じていました。
 アンドリューマーレーはその著書「神癒」のなかで、聖霊が私たちに内住されることについて以下のように語っていますが、その中にヒントがありました。
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「あなたがたの体は聖霊の宮であることを知らないのか」。多くの信者は聖霊が我々の肉体に内住せられることを、我々が家の内に居るのと同様に考えています。決してそんなものではありません。私は家から出ようと思えば何の困難もなしに出られます。私の家と私の間には何ら生命の繋がりはありません。私共の肉体の中にある霊魂と霊との存在はそれとは異なります。・・・我々の霊魂は、肉体内の此処に、其処にというように場所に限られて存在するものではありません。・・・霊魂の生命は体全体に満ちています。・・・聖霊が私たちの体内に住むというのも、このような状態であります。
・・・
(森渓川訳:アンドリューマーレー「神癒」キリスト教文書伝道会発行、1970,p.42)

 「私たちの霊、たましい、からだは完全にひとつの有機体」なのですから、性の交わりも肉体だけでなく、霊、たましいも一緒であることです。パウロが遊女と交わるものは遊女とひとつからだになるのだと述べている通りです。子供が生まれるのは、からだだけのことでなく、霊、たましい、からだの全部がひとつの有機体として生まれるのであると納得がいきました。肉体に関わることは、霊、たましいにもかかわっているのであると。

 人間は誕生の時に創造されます。決して誕生以前から存在するものではありません。
神の創造のみ業は、創世記1章に記されている6日間だけでなく、今も変わらずに続けられているのです。

 クリスマスはイエスの誕生に関するできごとです。
 イエスが真の人間である以上、イエスも霊、たましい、からだを備えておられるのです。それは天に帰られた今も、そのままお持ちです。体は栄光のからだに変えられており、それはやがて私たちにも与えられるからだです。
イエスの霊は、神ご自身であって、天地創造以前からおられ、創造自体に関わったおかたであるのです。パウロはこう解説します。
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コオサイ 1:15-17)
 イエス自身も自分は天から下ってきたと証言しています。
「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」 (ヨハネ 6:38)

これらのことを考え合わせると、イエスは誕生の際に、体とたましいはマリヤのからだからつくられたものであって、その霊は、神がおいでになってそこに宿ったということ以外には説明がつきません。

 ヨハネはイエスのことばを以下のように記録しました。 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」(ヨハネ 6:47-58)

 イエスのからだとたましいはマリヤひとりからつくられました。それがイエスが永遠の昔からおられた神であることを保証するために絶対に必要な条件です。そうでなかったらイエスは誕生の時に創造された人間になります。アブラハムの肉の子孫であって、アブラハムより先に存在したなどと決していえるものではありません。しかし、聖書が繰り返し強調しているように、イエスはマリヤひとりから生まれました。
その死を通して私たちに永遠のいのちをあたえるために。

 もう一度繰り返しましょう。
 イエスは私たちにいのちを与えるために天から下られました。この真の人であり真の神であるお方を深く信じ、そのいのちに与るものでありましょう。